わかりやすさの罪/武田砂鉄 |
文庫化されていることを知りサクッと読んだ。もはやおなじみと化した砂鉄節がこれでもかと炸裂していて楽しかったが、それだけで済まないズシンとくるものがあった。
世間の言葉使いやその風潮について逐一理詰めでツッコミを入れており、今回の大きなテーマは「わかりやすさ」。普段何気なくスルーしていることを今一度立ち止まって論考を深める作業は必要だと理解しつつ、大量の情報に溺れる日々ではいちいち気に留めていない。しかし、そうやってかまけていると権力や企業はその間隙をこれでもかと突いてくる。このように社会的に「わかりやすさ」が跋扈しやすい状況では流れに身を任せていない人間は偏屈、天邪鬼などと言われてしまう。しかし著者はそんな他者のことなんてつゆ知らず、ひたすらに思考し続けていることに勇気をもらえた。
本著はここ5年くらいの社会のムードを分析しているので、最近の小説を読んでいるときに「まさしくこの話!」と思う場面がたくさんあった。最初は偶然の一致かと思っていたが、それよりも物書きの人が抱く現在の社会に対する違和感が一致しているということなんだろう。
奇奇怪怪のTaitan氏が解説でも書いていたが本著の恐ろしいところは「何でも分かりやすくするの良くないよね!複雑なものはそのまま受け取ろうよ」といった短絡的な結論に向かえないところ。特にこうやって読んだ本の感想をつらつら綴っているのは「わかりやすい」要約を作る作業と変わらない。また個人的にグサッときたのは以下のライン。身に覚えがありすぎてコーヒー吹いた。
「さっきの話はとても重要で」ではなく、「さっきの話はとても重要だと思っていて」とする言い方。自分が話していることなのに、自分が話していることではないみたいだ。自分をどう見せるかに卓越しているかどうかが問われすぎているからこうなった、と結論付けるのも早計だが、あまりの頻度に驚いてしまった。感情を吐き出すのではなく、その感情を吐き出す理由、つまり「なぜなら」を必須にしているように思える。
ここで書いているのは本の感想なので「思った」の文末は致し方ない部分があると自分を甘やかしつつも断定を避けて保身に走っていると言われればそれまでだ。あと特定のラインを引用して本を象徴するような書き方もしているので心に鈍い痛みが…
本を通読し、ココがポイントであろうと加工する行為は、その本の「真」を摑むための行為ではない。加工では「真の情報」は摑めない。本は、そして文章は、すぐには摑めないからこそ、連なる意味があるのだ。簡略化される前の、膨大なものを舐めてはいけない。
何かをわからないまま置いておく、もしくは議論し続けるだけの忍耐力が社会から失われつつあるのは間違いなく近年は加速している。安易な二択の奥に潜む有象無象に思いを巡らせたい。戒めとして引用。
わかりにくいものをわかりやすくすることは難しいことではない。切り刻んで、口にしやすいサイズにすることはおおよそ達成することができる。でも、それを繰り返していると、私たちの目の前には絞り出された選択肢ばかりが提示される。選択肢が削り取られる前の状態を知らされなくてもそのことに慣れてしまう。「便利」と「わかる」が一体化している。
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