さびしさについて/植本一子、滝口悠生 |
ZINEとして出版された往復書簡 ひとりになること 花をおくるよが新たな内容を追加、文庫化されたので読んだ。再読しても本著の輝きは特別だったし想像以上に追加された内容が多く、さらにどんな本でも読めないような内容になっていた。
既刊の内容は過去記事を参照してもらうとして、ここでは追加された部分について書いていく。本著内で言及されているとおり最初の一冊を出版してから2人の関係がより近くなったことでギアがさらに踏み込まれた印象を受けた。最初の発信は植本さんでパートナーと関係を解消した話から始まる。その事実を知っている「一子ウォッチャー」も多いはずだが、改めて滝口さんへの書簡という形で語り直されることで新たな視点が加わっていて新鮮だった。同じ事実があったとしても照明の当て方次第で色んな見方、考え方ができる。今回の植本さんの文章はその当て方のバリエーションの豊かさに驚いた。情報過多の今、これくらい自分のことについて考える時間を設けることは意外に難しい。時間をかけて手紙を書き特定の誰かに伝える、この客体化の作業で自己と向き合う。これはすべてが加速化する社会において一つのサバイブ術だと思う。
そして追加分の滝口さんの文章は正直めちゃくちゃくらった…言語化できていない感情の数々がズバズバ言語化されていくし文章の精度、芯の食い方がその辺に転がっているエッセイと雲泥の差がある。最初の返信では、植本さんの著書『愛は時間がかかる』を通じた時間の捉えた方に関する考察が書かれているのだけども本著のオモシロさを象徴していた。単なる書評ではなく生活と文がそこに同居しているように書かれている。私たちが日常で何気なくやり過ごしているものに言葉を与えていくとでも言えばいいのか。たとえばこれとか。
子どもは生きづらいんだろうか、そうでもないんだろうか、とかときどき考えてしまいますが、生きづらいというのは昨日と今日と明日が続いている時間のなかで求められる不可逆性とか一貫性とかのもとにあって、娘はそういう時間のなかをまだ生きていないのだと思います
育児に関する深い考察も本著の一つの特徴である。それぞれの子どもの世代が異なっているため抱えている悩みや背景は異なっているものの、いずれも真っ直ぐな思いの吐露に胸を打たれまくった。植本さんは自身の過去と今の娘さんの状況を対比して、ここでも1人とは何かについて考察されているし、滝口さんは小さな娘さんとの対話を試みている。特に後者は私自身が似たような年齢の子どもがいるため身につまされることばかりだった。政治の話ではないけれど、本質的な政治の話という矛盾した何かがそこにあった。具体的な議論の前にミクロな違和感を放置せずに抗っていかないと社会は何も変わらない、そんな思いを新たにした。
今となっては、お2人とそれぞれPodcastでお話しさせていただいたことが信じられないのですが、もしまだ聞いていない方がいればエピローグとして各エピソードをお楽しみください。
86:The correspondence like dodgeball
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