2025年8月25日月曜日

馬と今ここ

馬と今ここ

 植本さんの『ここは安心安全な場所』を読んで誰もが驚いたのは、あとがきの「とくさん」こと徳吉英一郎氏の文章だろう。馬との関係から派生して記名論を展開する、その筆致に只者ではない気配を感じ、石田商店で本著が売っていたので買って読んだ。本著は、ですます調なのでトーンに丸みがあるのだが、心の芯に迫ってくる内容で短いながら読み応えがあった。

 本著は遠野で馬と生活する徳吉さんの馬との付き合い方ガイドだ。前半は馬と触れ合うときの具体的なアドバイスが中心で、馬という生き物の実態が丁寧に説明されている。「人間が乗ることができる哺乳類」という存在はやはり特別であり、読み進めるうちに牛や豚とは一線を画す動物だと感じた。それは、筆者が優しさと冷静さの同居する視線を馬に投げかけているからだろう。

 後半は馬との関係性について深堀りしてメンタル的な点について色々と書かれているのだが、個人的にはここがハイライトだった。というのも、馬との関係について書かれているものの、もっと普遍的な人間関係や子育てといった話に置き換え可能だからだ。以下のパートは自分の育児のスタンスとして胸に刻んでおきたい。

大事なのは、馬が健やかに生きていけるように環境を整えつづけること。それから馬みずからが育っていくようなケアをしつづけること。そして、馬と人のあいだで育っていくコミュニケーションの、豊かさや多様さや深さを楽しみつづけること。そんなふうに思います。

さかだち日記

さかだち日記/中島らも

 ぶってえ本を連発で読んでいたので、古本屋でサルベージした本著を読んだ。『アマニタ・パンセリナ』を読んで、中島らものオモシロさに改めて気づいて古本屋で見たら買うようにしている。日記ということもあり、彼の生活の機微が伝わってきて興味深かった。

 95年5月にアルコール依存症と躁うつ病で入院して、そこで断酒を決意。そこから一年後の96年5月〜98年4月までの日記となっている。(タイトルの「さかだち」は「酒断ち」を意味している。)作家、ラジオパーソナリティ、役者、バンドマンとマルチタレントとして多忙な時期を過ごしている頃の様子が伺える。バタやんというマネージャーと二人三脚で、仕事をこなす日々は退廃的なイメージとは裏腹であった。それだけに酒がいかに危ないか証明するような日記である。一度、連続飲酒が炸裂するシーンがあるのだが、そのときのタガの外れ方が尋常ではなくスリリングだった。

 バブル崩壊後とはいえ、まだまだ日本は豊かだったのか、連載原稿のために海外旅行にバンバン行っているのが印象的だ。インターネット登場以前、紙媒体が持っていた情報の価値の高さに思いを馳せた。海外に行くと、やはりジャンキーの血がうずくのか、入手方法やそれをキメた感想などが書かれており、酒をやめている分、そこで発散するようにしていたのかもしれない。前述の酒のシーンに比べると、どれも穏やかなので、酒のようなハードドラッグが手軽に安く入手できるのに、大麻に対して異常に厳しい今の日本の状況は合理的には納得しづらいなと改めて感じた。そして同じことを著者も憂いていた。

 冒頭とエンディングには野坂昭如との対談が掲載されている。冒頭は断酒について、エンディングはバイアグラについて。前者では、それぞれの断酒方法や酒をやめるまでの経緯などについて話しており日記の導入として機能しているのだが、問題は後者である。脈絡なく、二人がその場でバイアグラを飲む対談が載っており、丁々発止のやりとりを披露している。ただの露悪趣味の企画と思いきや、野坂がアメリカ論にリーチするあたりが油断ならない作家ならではの展開だった。小説、エッセイ、悩み相談など膨大な著作があるので、他のも少しずつ読んでいきたい。

2025年8月23日土曜日

世界99

世界99/村田沙耶香

 夏の読書2025、第二弾。ぶってえ本を読みたいと思ってたら、Kindleのセールで合本版がポイント還元で実質半額になっていたので読んだ。村田沙耶香作品はいくつか読んできているが、集大成と思わず言いたくなるような強烈な小説だった。女性が日本で生きる困難さについて、アイロニーをこれでもかとねじ込んで煮詰めた末に出来上がった怪作とでも言えばいいのか。さらに、ジェントリフィケーションが物理的な場所だけではなく、私たちの心のうちにまで入りこんできている現状を描きだしていた。そんなことができるのは、なんでもありの最後の聖域である「小説」というフォーマットだからこそかもしれない。

 主人公である空子の一生涯を軸に近未来を描く物語で、女性が経験するイベントや心情を丁寧に追いながら、男性社会の地獄と人間の差別心を徹底的に浮かび上がらせていく。前者については男性社会の最悪な部分を余すことなく列挙し、順番に詰め込んでるレベルで網羅的に取り上げられており、自分の振る舞いを改めて指摘されている気がした。感情移入しやすく、追体験ができるフィクションだからこそ描く意味がある。特に前半で空子が学生の頃に経験する性にまつわる描写の数々がきつい。中学生、高校生の女の子と付き合う大学生、社会人男性の気持ち悪さがここまで言語化されている小説はない 。「純愛」というか、そこに愛があれば成立するかのような言説があるが、権力勾配を利用した性搾取であることを突きつけていた。

 後者については、特定の遺伝子を有した人間が差別される社会となっており、見た目でわからない「遺伝子」というファクターで差別が行われる怖さが存分に描かれている。外国人に対するヘイト感情が可視化された今読むと、人間の差別心が増長すると、なんでもやれてしまう怖さを感じた。また検査結果がすべてであり「根拠があれば何をやってもいい」という一種のファクト主義へのカウンターにもなっていた。

 近未来要素としてはピョコルンという生き物が挙げられる。はじめは一種の愛玩動物として登場するのだが、物語が進むにつれて、その中心を担う存在となる。具体的には性別役割分担として、女性がこれまで担ってきた家事、出産、子どもの世話などを代行する都合のいい動物へと変化していくのだ。これまで担う側だった女性たちが解放されるわけだが、担う側から頼む側になったことで、自分たちの置かれていた非人道的とも言える立場を自覚すると同時に、辛さがわかるゆえに押し付けることの苦悩に苛まれる。ピョコルンは動物ということもあり、家畜に近い扱いだからこそ、人間サイドの残酷性が思いっきりぶつけられており辛い。この設定によって、日本社会において女性がいかに抑圧されているかを逆説的に強調することに成功していた。物語が進むにつれてピョコルンに女性の「負債」が移行していくことで、著者がリミッターを徐々に解除して、ドス黒い感情を広げていく様が圧巻だった。上巻の終わりのあまりに凄惨すぎるエンディングは言葉を失った。そのエンディングを受けても、人間は自分たちの都合を優先して生きていく、業が深い生き物なのだと言わんばりに厳しい仕打ちが待っており何も救いがない。

 物語の軸としてペルソナに焦点を当てている。人は人間関係ごとにペルソナを使い分けている中で、本当の自分なんてどこにもいなくて、己の意志もない。誰かがいて、初めてそこで自分のペルソナが立ち上がるという描写が繰り返される。主人公は各ペルソナを「世界」と呼び、各ペルソナに番号を振っている。その一番後方にいる99番、つまり複数のペルソナを司る空っぽな人間だと自己認識しているペルソナを「世界99」と呼んでいるのだった。これは考察ブームを筆頭としたメタ視点に対するカウンターであり、いろんなものを客観視できたとしても、そこには己の残滓は何も残っていないという指摘に映る。さらに、いくらメタ視点をとっても、その外側には真の意味で客観視できる他人がいるのだから、という無限マトリョーシカ的な構造まで示唆されていた。『コンビニ人間』から一貫してアイデンティティの揺らぎに着目しているが、今回のペルソナの使い分けは、SNSでアカウントをクリック一つでスイッチする様を想起させるもので、より時代にフィットする形にアップデートしたものとなっていた。

 専業主婦である自分の母親を「道具」と呼び、自分も便利な道具の連鎖の中にいることを自覚している。つまり、都合のいいように使われるだけの存在であり、そこから彼女は自由でありたいと思っているが、生きていくうえではそうも言ってられない。夫である明人との関係を評した以下ラインが象徴的だった。これらだけではなく、見た目を整えて、男に選ばれることを目指す気持ち悪さを手を替え品を替え表現していた。

明人の便利な生活と人生のための家電になること。その上で性欲処理もし、ゆくゆくは子宮を使って明人の子供を発生させること。私が捨てようと努力している未来は、母が生きてきた地獄でもあった。

自分を養うためだけに自分の奴隷になるか、家畜を飼うことで真の家畜になることはぎりぎりで免れながら、明人の人生と生活のための便利な家電になるか。私は家電を選んだ

 当たり障りがない、摩擦をなるべく起こさない人間を「クリーンな人」と呼び、自分の意見を主張することは暴言と同列で「汚い感情」として取り扱われる。クリーンな人は何も考えずに調和を乱さないように生き、面倒なことは遺伝子の異なるラロロリン人 a.k.a「恵まれた人」がやってくれる。意志がない人間がクリーンな世界を構築し、表向きは何も問題がないように取り繕っているが、その内実は面倒なことを他人に押し付けているだけという社会論が後半では展開されていた。小説だからこそできるラディカルなものだと思いつつ、投票率が50%程度なので、現実のアナロジーとも言えるだろう。

 「死ねよ!」という言葉に代表されるように言葉遣いの乱暴さが目についた。しかし、これは単純に乱暴なだけではなく、その手の言葉が「己を守る一つの武器なのだ」という指摘がなされておりハッとした。自分自身もよく言っていたし、ダウンタウンの浜田が昔よく言っていた「死ねばいいのに」にも笑っていた。暴力性が社会で徐々に剥ぎ取られていく中で、その言葉自体を誰もが公に発することが難しい状況となった。しかし、世の中には「死ねよ!」という言葉でしか抗えないほど気分が悪くなることがあり、その暴力性を弱者からも取り上げて、感情の発露を封じてしまうのはどうなんですか?と問うていた。これは小説家という言葉を仕事にしている人だからこその視点だし、暴力的な言葉が世の中に蔓延ることは必ずしも賞賛すべきことではないとわかりつつも、声なきものの声まで奪っていないか?という指摘はもっともだ。

 各論についてだーっと書いてしまったが、日本社会の嫌な部分をこれだけ集めてきて濃縮しながら物語として構築するスキルは圧巻である。この小説を読み終えて思い出したのは百田尚樹のクソ発言だ。発言の中身が最悪であることは当然だが、あの発言はSFひいては小説全体に対する侮辱でもあったのだと本著を読むと気付かされる。百田尚樹から仕掛けられたビーフに対するアンサーとして、これ以上のものはないだろう。そして、ラッパーのように現役の小説家でGOATをあげろといわれれば、村田沙耶香の他にいない。それくらいの超大作だった。

さよなら未来 エディターズ・クロニクル 2010-2017

さよなら未来 エディターズ・クロニクル 2010-2017/若林恵

 夏の読書といえば、分厚い本を読みたい気持ちになる。そこで、ずっと置いてあった本著を読んだ。元WIRED編集長による、雑誌やウェブに掲載されていたエッセイ・評論集。五年分あるので500ページ超だが、記事の集積なので隙間時間で読み進めることができた。未来を考えるために過去や現在を見つめ直す、まさに温故知新の考えが詰まっていて興味深かった。

 2012〜2017年という近過去は、2025年の現在からすると振り返られにくいタイミングであるが、だからこそ今読むと色々と気づきがある。テック雑誌の編集長として未来について語ることを要求されながらも、著者は未来を語る上での過去の必要性を問うていた。実際、未来のことを直接言及するよりも「過去にこういうことがあった」という視座から話が展開されていくことで説得力が増している。特に原発に関する論考は、十年以上が経ち歴史化しつつある今読むと改めて刺激的で、「あのとき何が起き、何を考えるべきだったのか」を突きつけられた感覚があった。

 テック雑誌ということもあり、トピックは多岐にわたるなかで著者の引き出しの多さに驚かされた。編集長なので、一つのテーマについてどういうアプローチで雑誌を作るか、そのテーマの思索を深めているとはいえ、毎度フレッシュな視点を提供し続けることは並大抵のことではない。

 なかでも著者が音楽好きということもあり、音楽に関する記事が豊富な点も特徴だ。ビジネスとしての音楽について論じたり、匿名ブログでブックオフの500円CDをレビューしていたりと切り口の幅に驚かされる。世代や音楽の趣味は異なるものの、読んでいて興味深いものばかりだった。たとえば、アイスランドの音楽シーンのエコシステムは、グローバル化の時代に読むと新鮮だし、K-Pop論は今日のグローバル・ポップな状況を予期したような内容となっていた。そして、近年の爆発的人気の拡大に伴い、ヒップホップ周辺で巻き起こるさまざまな事象にモヤモヤするわけだが、結局は著者のこの言葉に尽きるなと思える金言があった。

音楽好きは、音楽好きを敏感に察知する。音楽ファンが、アーティストのみならず、レコード会社なり、オンライン/オフライン問わずショップなり、新しいメディアやデジタルサーヴィスなりのなにに注視しているかと言えば、結局のところ「こいつら、ホントに音楽が好きなのかな?愛、あんのかな?」というところでしかない。

 音楽に関する内容の中でも、ソランジェとビヨンセがそれぞれ2016年にリリースしたアルバムに対するレビューに一番グッときた。特にソランジェのアルバムについて、その音像からしてエポックメイキングな内容で個人的にかなり好きなのだが、特にリリックの考察まで含めたアフリカ系アメリカンの現在地に関する考察が目から鱗だった。こういう記事を読むと、サブスクでひたすら新譜を右から左に聞きまくっているだけの音楽生活について考えさせられる。つまりは、アーティストが残した作品に対して、ちゃんと向き合うことがいかに必要で重要であるかということだ。

 また、本著はクリエイティブ論としても読むことができる。テック雑誌といえば、テクノロジーの発展に対して過剰に期待して持ち上げそうなものの、そういうものとは意識的に距離を置いている。厭世感が漂う中で、クリエイティブに対してエンパワメントに溢れる言葉がふと現れる。そんなギャップがあるからこそ、読み手は著者の言葉を信頼し、活力を得られるのだろう。終盤、トランプが一回目の大統領選を制した際の「分断」をめぐる記事は、日本にもその波が訪れているからこそ、当時よりも迫るものがあった。「私たちは他山の石にできたはずなのでは?」と思ったりもするが、世界の潮流はそう簡単に変わるわけもない。未来をただ夢想するのではなく、現実や過去を直視しながら考えること。その重要性を改めて教えてくれる一冊であり、2025年の夏に読むにふさわしい読書だった。

2025年8月19日火曜日

それでも不安なあなたのためのクルドの話

それでも不安なあなたのためのクルドの話/小倉美保

 埼玉県川口市における「クルド人問題」と称された行政課題がよく取り上げられている。特にゼノフォビアの傾向が先日の選挙で大きく可視化されたことで、現実がどうなっているか知りたくなり、浦和のパルコで開催されていた本の催事で購入した。

 本著は、市民公開講座での講演をもとに書籍化されたもの。著者は蕨で本屋兼カフェを営み、川口市に長年暮らしながら、クルド人との交流の場づくりにも積極的に関わってきた人物である。その立場から見た「川口市とクルド人」の現状が、具体的に語られている。

 講義形式の文体で読みやすく、難解な専門書とは異なり、現場感覚を伴ったリアルが平易な言葉で整理されているのがありがたい。歴史や統計の基礎知識も改めてまとめられていて、「自分たちがいかに印象論だけで会話していたか」に気づかされる。調べようと思えば調べられるのに、ついサボってSNSの濃いヘイト情報に触れ、負の循環を強めてしまう現状を思うと、静的なメディアである「本」から情報を得ることの重要性を再確認した。

 難民に対して、日本側の制度整備が追いついていない問題が取り上げられている。 特に難民認定まで時間がかかる問題が今の相互不理解の大元となっているようだ。制度改善は当然のことだが、現状の日本の社会の仕組みがどうなっているかを当事者にわかるように説明することが必要だという話は現場を見ている人ならではの意見だった。

 「ゼノフォビア絶対ダメ!」というゼロサム思考になっていない点が本著の白眉だろう。嫌悪する気持ちがないことに越したことはないわけだが、欧米各国に比べて「単一民族国家風」の時期が長かった日本では、異なる文化背景を持つ人に違和感を覚える場面もあるかもしれない。そんなときに「外国人だから」という短絡的な思考に陥るのではなく、そこの個別性に着目することが大切だという指摘はもっともである。 言い換えれば、それは「他者とどう向き合うか」という普遍的な問いであり、今の日本社会で共に生きていくための貴重なヒントに満ちた一冊である。

2025年8月10日日曜日

派遣者たち

派遣者たち/キム・チョヨプ

 小説家の中で、リリースのたびに迷わず買う数少ない作家、キム・チョヨプ。本著は長編ということで楽しみにしていたが、今回も期待を裏切らないオモシロさだった。「共生」がテーマであり、今の時代に読むと、ことさら胸に沁み入るものがあった。

 舞台は地球が荒廃し、人類が地下で暮らすクラシカルなポストアポカリプス的世界。地上は、菌をモチーフにした異生物「氾濫体」に支配されており、選ばれし「派遣者」が地上に出て調査や探索を行う。主人公は、自分の脳内に存在するオルターエゴのような存在と関わりながら任務を進める。当初は生成AIによるCopilotのように、こちらの利益を最大化するために相手を利用する関係だったところから、物語が進むにつれてジャンプ漫画のような熱いバディへと変化していく。(シャーマンキングとか?たとえが古すぎて終わっている…)

 氾濫体に侵食されると、人間は錯乱状態に陥り、やがて死に至るため敵視されている。ゆえに氾濫体を絶対悪として描き、その異生物から世界を奪還するのだ!という勧善懲悪な構図を想像するかもしれないが、著者はそんな単純な物語にはしない。人間と氾濫体の狭間の存在について、さまざまなグラデーションで描き出し、世界の豊かさと難しさを同時に表現している。価値観どころか姿、形も全く異なる生物同士が協調して、どうすれば同じ世界で生きていけるか模索する。メッセージ性を失わず、ダイナミックな物語としてドライブさせながら描き切るその筆致がキム・チョヨプらしい。

 個人的ハイライトは、スーサイドスクアッドならぬスーサイドトリオによる過酷なミッションだ。それぞれが命をかける事情を抱えつつ、協力し、ときに衝突しながら、探究心で物事を明らかにしようとする姿は、それぞれの動機があるとはいえ、サイエンスそのものだった。終盤にかけては、主人公の善悪の揺らぎと儚い恋心が重なり、怒涛のクライマックスへと向かっていく。著者がストーリーテラーとして、よりポップでエンタメ性の高いステージに突入していることがよくわかった。

 物語の背景にあるのは、人間を「さまざまな生物の集合体」として捉える視点である。私たちの体内には無数の菌や微生物が共生している。つまり、自分と関係ないと思っていても、いつのまにか関係している、その象徴としての菌は「共生」というテーマで物語を紡ぐ場合、これ以上に適当なモチーフはないだろう。主人公の親代わりの存在であるジャスワンという登場人物の言葉はシンプルにそのテーマを表現していた。

大事なのはね、自分が自分だけで成り立ってるって幻想を捨てること。そしたら、可能性は無限だよ

 日本でも、幻想に溺れている人々がたくさんいることが可視化されてしまった今、誰かと共に生きることを考える上では、うってつけの小説だ。

2025年8月5日火曜日

本屋さんになりたいんだけど日記

本屋さんになりたいんだけど日記/LAZY BOOKS

 万博のミャクミャクを彷彿とさせる赤と青の配色が印象的な表紙をネットで見かけて以来、ずっと気になっていた中、先日訪れたcommon houseで実物を見て即購入した。

 本著は、東京都と仙台に住む男女二人(なおや氏&ゆりあ氏)が、本屋を開業するまでの過程として綴った日記である。ZINEが盛り上がっている背景には、ここ数年の「日記ブーム」の存在が大きいだろう。SNSがアテンション合戦と化す一方で、知らない人のささやかな日常を本で読む行為は、SNSとは対極にある時間の過ごし方だ。とはいえ、日記のZINEはすでに飽和状態なので、まったく知らない人の日記を読むには何らかのフックが必要である。本著の場合は二つのフックがあり、一つは本屋を経営しようとしていること、もう一つは圧倒的に凝った装丁である。

 本好きであれば一度は夢想するであろう「本屋をやってみたい」という願望。しかし、今の日本で本屋を開業するのは容易なことではない。本の利益率の低さや大手ネット通販の普及といった逆風は、あちこちで語られている通りだ。本著は、そんなシビアな現実を忘れてしまいそうになるくらい、いい意味で楽観的だ。単純に本が好きで、それを生業にすれば人生がオモシロくなるという思いが先行している。当然、本屋として儲かるためのビジネススキームについて考えることは大切なことだろうが、その手前のモチベーションの高さがまっすぐ伝わってきた。何事も計画しているときが楽しいといわれるが、それが日記という形で言語化されているので、読んでいるこちらもワクワクさせられる。二人のアイデアマンとしてのセンスも光っており、とりわけ製本や装丁の部分は、自分自身がZINEづくりをする上でも大いに参考になった。

 そして、本書を圧倒的にスペシャルな存在にしているのが、その装丁である。右綴じ・縦書きで、真ん中のリストページを境に上下が反転。二人それぞれの日記が前後で分割収録され、しかもスピンが二本ついていので、同じ期間の日記を二人の視点から読み比べることもできる。(私はなおや氏→ゆりあ氏の順に読んだ)。真ん中のブックリストも秀逸で、タイトルを眺めているだけでも楽しく、日記中で言及される本を辿る索引としても機能している。

 正直、この装丁の魅力は言葉で説明しきれない。しかし、実物を手に取ったときの感動は唯一無二で、本が好きであればあるほど、本著は魅力的に映ることは間違いないので本好きはマストチェック。