2024年11月19日火曜日

こうしてお前は彼女にフラれる

こうしてお前は彼女にフラれる/ジュノ・ディアス

 オスカー・ワオの短く凄まじい人生のジュノ・ディアスによる短編集ということで読んだ。訳者あとがきで気づいたが、オスカーの友人であるモテ男ユニオールをめぐるスピンオフなので、ニコイチで、かつ連続で読んだほうが楽しいのは間違いない。

 どうしようもない浮気男であるユニオールのさまざまな人生のフェーズでの色恋沙汰と、アメリカ移民二世として生きることなどが描かれている。各短編は独立しているものの、ユニオールの人生という一つの軸があり、そこを起点に家族や恋人が登場して、すったもんだが起こっていく。居酒屋で聞く友人の恋愛話に近いものがあり、かなりフランクなノリで描かれている点が特徴的だ。それは女性器の翻訳が、大胆にも放送禁止用語の言葉で行われている点からも顕著だ。あと先を考えず心の赴くままに行動して、あとで後悔することの繰り返しなわけだが、それが一子相伝よろしく父→兄→ユニオールと継承されている様に業の深さを感じた。特に兄であるラファの存在は大きい。ラファはイケメンで女の子を取っ替え引っ替えしているのだが、ガンで若くして亡くなってしまう。兄に憧憬を抱き、その姿を追いかけて大人になったユニオールが兄の不在を埋めるように女性を追い求めてしまうのではないか?このあたりは訳者の方が、あとがきで突っ込んで考察しており興味深かった。

 トランプが再度大統領に当選した今、不法移民に対する規制が今より厳しくなることが想定されている中、着の身着のままでアメリカにやってきて何とか生きている人たちの話は、たとえフィクションだとしても胸が苦しくなる。もっとも顕著なのは、本著で一番硬派と言ってもいい「もう一つの人生を、もう一度」だろう。ドミニカからやってきた女性たちが、各自家族の事情を抱えながら、なんとかサバイブしているその姿に勇気をもらいつつも、同僚、恋人に過度な期待はしない、なぜなら裏切られると辛いから、という気持ちが伝わってきて切なかった。完全に偏見だが、ドミニカ人が楽天的というイメージを華麗に裏切る静謐さがあった。これが一番好きな短編。

 人生のターニングポイントとなった瞬間が密度高く真空パックされ、まるで走馬灯のように短編として配置されたのちに表題作が最後に用意されている。自身の浮気が原因で彼女と別れることになり、それを忘れるために様々なことに挑戦するのだが、何をやっても身体を痛めて八方塞がりとなってしまう。そんな状況で全体に厭世感が漂いながらも、NYで暮らすドミニカ系アメリカ人の日常が細かく描写されているので、どこか楽しげな空気を感じられた。正論でいえば浮気する奴はクソ野郎でしかないが、こと恋愛においては正論なんてまるで通じないし、それでも人生は続いていくことを教えてくれる一冊だった。

2024年11月18日月曜日

それはただの偶然

それはただの偶然/植本一子

 植本さんの新作は「わたしの現在地」として銘打たれたシリーズ第一弾のエッセイ集。最近の日記ブームの火付け役かつ牽引者であるわけだが、これまで読んできた身からすれば、日記を経た先にあるエッセイという印象をもった。

 一人でいることに耐えられず、常に誰かを求めてしまう。そんな自分の内面と向き合っている様子は近作の『愛は時間がかかる』や『こころはひとりぼっち』で書かれてきたが、本作は植本さんの周辺の人たちへの思いが率直に書かれており、対照的な一冊と言えるだろう。

 具体的な描写は避けられているものの、植本さん自身が事件に巻き込まれたことが幾度となく言及されている。事故、事件、病気といった自分のコントロールできない事態に突如巻き込まれる辛さは、本や実体験で分かっているつもりだが、本人にとってどれだけダメージがあるかは他者からはわからない。しかし、そんな中でも表現から伝わるものがあり、「春」という詩で描かれる絶望、虚無感は心の深い部分を刺激された。

 精神的に参った状態の植本さんの元に、まるでマーベルのアベンジャーズよろしく皆が集結し、彼女を支える互助の関係性を、内向的な自分としては羨ましく感じた。ご本人は誰かに頼ることを気にされているようだが、そんな風に助けてくれる人がたくさんいる状況は、人間関係が希薄な今の時代において正直想像がつかない。それはひとえにご本人の人望なのだろう。大人になればなるほど、新しい友達を作ることは難しくなるが、植本さんはそのハードルを軽やかに越えて、どんどん関係性を結んでいく。その様子が本作では手に取るようにわかるし、植本さんが植本さんたる所以でもあるのだと思う。それは一人のファンにしか過ぎない私に対する寛大さからも明らかだ。

 日記の生活感、それに伴う刹那性が多くの読者を魅了してきた中で、今回のエッセイにおいては視点が落ち着いている。言うなれば、日記はスナップショットの連続で、怒涛のように生活を追いかける、ドキュメンタリー性が極端に高いものだったのに対して、エッセイは日付がなく時間軸が曖昧になることで、構図が決まったポートレートのようで、一種のフィクション性さえまとっている。そこでは植本さんがカメラマンとして培ってきた、他者に対する眼差しの鋭さ、ショットの強さが存分に発揮されている。

 冒頭で述べたとおり、その眼差しを駆使した人物評が多いのが本作の特徴だ。自分のことが誰かに文字で書かれ、残っていく。書く/書かれる関係性について改めて考えさせられる。書くことで救われていた時代から、書かなくても残ることもあるという考え方の変化は、写実主義の傑作『かなわない』で知った身からすると隔世の感があった。また、書かれた側からの率直なアンサーが載っている点もスリリングで、ハイライトの一つだろう。

本書で紹介される人たちは、植本さんの魅力ある文章だからこそ、誰も会ったことがないにも関わらず、生きている様がまじまじと伝わってくる。特に終盤の元パートナーとの関係性の変化とある種の終結まで、思考と現実がシームレスに描かれており、これまでのことも思い出されて、壮大な恋愛ドラマのエンディングを見ているようだった。このエッセイから次はどんな風景を見せてくれるのか、毎度読み終わる度に期待と不安が入り混じる植本さんの著作からはいつも目が離せない。

※植本さんが出店される文学フリマのブースに『乱読の地層』を置いてもらうことになりました。当日、私も参加させていただきますので、東京近郊の方は是非お立ち寄りくださいませ。

文学フリマ東京39

Q-35/植本一子

2024/12/01 12:00〜

https://c.bunfree.net/c/tokyo39/w/Q/35

2024年11月12日火曜日

積ん読の本

積ん読の本/石井千湖

 本屋で見かけてパラっとめくって、オモシロいことを確信して読んだ。他人の読書スタイルや本棚に関するエピソードは誰の話でも興味深い、それを証左するような内容だった。

 著名人の自宅や仕事場を訪問して、本棚を見ながら、どのように積ん読しているか、また積ん読に対する考え方、ひいては読書全般に関することをインタビューしている。作家、学者、翻訳者など登場人物はさまざまだ。本棚のスタイルも雑然と山積みにしている人もいれば、きっちり本棚に収納して管理している人もいたり、本という物理媒体と向き合い方のグラデーションを知ることができて、本好きとしては脳汁が出た。写真が素晴らしく、カラーということもあり、かっこいい本棚の数々が美しく輝いて見える。やはり本がたくさん積まれたり並んでいる様は、収集癖がある身としては心を昂らされる何かがある。そして本棚は一種のレコメンドとして機能しており、インタビュー含めて読みたい本が増えた。

 本棚に本を置いておくことの意味は「いつか読むかもしれないから」とか「好きな本だから」以上の意味があることを本著は教えてくれる。本屋や図書館の本棚でもなく、電子書籍でもなく、自分の本棚を持つ意味を考えさせられた。特に山本氏の「本棚は知識のインデックス」という観点での主張は目から鱗だった。読む、読まないは関係なく積むことで意味が立ち上がる。それは自分の知識のアウトソースとして本棚が機能しているということだ。まだまだそんな境地ではないので、本棚道を精進したいところである。

 また、小川公代氏が主張していた「本棚はビオトープのようなものだ」という主張にはおおいに納得した。大きな本棚を最近購入して、そこに収まるだけにすると自分ルールを定めたことにより、本棚で好循環が起きており、まさに生きている感がある。手元に置いておきたい本と、パッと読んでしまいたい本のラインが長年の読書生活で定まってきたことも大きい気がする。本棚をエディットする感覚を本著を参考にしながら本棚を養っていきたい。

2024年11月9日土曜日

ISSUGI & GRADIS NICE 『Day’N’Nite 2』 Release Party



 ISSUGIの新しいアルバム『Day’N’Nite 2』のリリースライブへ行ってきた。2016年以来、二度目のGRADIS NICEとのタッグアルバムだ。GRADIS NICEはさまざまなラッパーにビートを提供しているが、やはりISSUGIとのあいだには特別なケミストリーがあり、今回のアルバムの素晴らしい曲の数々をライブで聞けることを楽しみにしていた。

 基本的にアルバムの流れで順番にパフォーマンスを披露していくスタイル。GRADIS NICEがバックDJを務め、アルバム冒頭を飾る「BK Suede」を流したところでISSUGIが登場。Navy NubackからBlack suede という変化と、下げたジーンズという変わらないスタイルの対比から放たれる”東京のアクセント”は誰もが簡単に真似できない彼のB-BOYスタンスだ。

 矢継ぎ早にfeatを呼んだ2曲へ流れ込む。「YingYang」「Step into the game」のいずれもEpic, Eujun, Sadajyo といったフロー巧者を召喚した曲だが、これらの曲におけるISSUGIのリリックに注目したい。”貧しさから握ったマイクじゃない”、”Japanese rap 悲劇の悪趣味をオレが喜劇でOver”というラインは明らかにRAPSTAR誕生以降を踏まえているように映る。それはSadajyoをフックアップしていることからも明確で、Sadajyoにはリアリティショーとして分かりやすい一種の「不幸自慢」がなかった。それだけが彼が敗退した理由ではないとはいえ、スキル、アティチュード至上主義のISSUGIが彼を大きくフックアップすることにシーンに対する一種の宣言が透けて見える。MONJU以外でSadajyo、JJJだけが2曲客演したこと、この日のセットリストにもあった「Lyrics, Gemz, Peeps & Treez」のリリックからも明らかだろう。

 GRADIS NICEとの1作目である『DAY AND NITE』からどの曲が披露されるのか楽しみにしていたが、仙人掌、Mr.PugというMONJUの盟友二人がそれぞれFeatで参加した曲だった。一作目は本当によく聞いたので、久しぶりにライブで聞くことができて嬉しかった。当時のリリパは代官山の「晴れたら空に豆まいて」だったことも踏まえると、この日の観衆の多さは隔世の感があった。

 上述したメンバー以外の客演はJJJ、BESといった安定感抜群な馴染みのメンツ。前回のライブでもバイブス番長としてのBESは際立っていたが、今回もそれは健在だった。アルバムの中では隙間の多いビートだが、ラップ魔神二人にかかれば極上の仕上がりになる。ここ5〜6年でBESのライブパフォーマンスを何度も見てきているが、確実に息を吹き返しており「あの頃のBESが!」という気持ちで本当に嬉しかった。JJJは言わずもがなの仕上がりであった。

 惜しむらくは今回のライブで5lackがいなかったことだろう。というのもアルバムにおける5lackの役割はアルバム全体のクオリティを支える大きな屋台骨だからだ。「Janomichi」で素晴らしいメロディでフックを歌ったかと思えば、「Wizards」で放たれるラップは独特の間の使い方で完全にネクストレベル。そんな彼の不在は痛手だったものの、そこは見せ方を工夫していた。特に「Wizards」では、5lackのバースをアカペラで聞かせてから、GRADIS NICEのエグいビートがドーン!と鳴ってぶち上げるという百戦錬磨のラッパーゆえの魅せ方が素晴らしかった。

 この日のハイライトはなんと言っても「XL」である。ヒップホップに対するアティチュードの表明は前作から特に顕著になっているが、今回のアルバムでは「XL」がそれを担っている。今のISSUGIのライブへ来ている観衆の多くは礼拝するかのように、そのアティチュード、つまり「俺たちの好きなヒップホップとは何なのか?」を確認しに来ているはずだ。だからこそ盛り上がりは他の曲と段違いだった。そして、この曲から「One on One」 へ流れていくことで「XL」の意味がより輝く。彼の数あるパンチラインの一つ、”XLのシャツに意味なんて求めるな”をリリースから11年も経った曲で回収していくのは本当にかっこよかった。本人も「一番ライブでやりたかった」と言っていたので、「366247」のような新たな定番になるかもしれない。

 また、ISSUGIのDJに対する独特の熱い想いも光った。スクラッチ要員としてDJ SHOEを呼びこんだり、一通り今回のアルバムの曲をやり終えると、バックDJとしてわざわざScratch Niceを呼び込んでいた。ヒップホップのライブでは、バックDJが単なるポン出しになることも多い中で、彼がDJに見出している意味がステージングから伝わってくる。ラップがうまいラッパーはいくらでもいるかもしれないが、こういう細かく、そしてかっこいいアティチュードの積み重ねが、ISSUGIというラッパーを形成していることが如実に現れた場面だった。

 今やヒップホップは日本でもポップカルチャーの一部となりつつあるが、それに伴った歪みを感じる場面はリスナーレベルでもたくさん遭遇する。プレイヤーサイドはそれ以上にどういう表現をするのか、アティチュードが問われる場面が今後ますます増えていくだろう。そんなとき、ヒップホップを文字通り体現するようなラッパーたちが最後の砦となり、私たちが愛するカルチャーを死守してくれるはずだ。そんな最後の砦のラッパーの一人、ラストB-BOYは間違いなくISSUGIだという思いを新たにするライブだった。


いのちの車窓から

いのちの車窓から/星野源

 パートナーに誕生日プレゼントで『いのちの車窓から 2』をもらったのだが、一冊目を読んでいなかったので読んだ。音楽家としての星野源を一番聞いていた時期のエッセイなので楽しめた。

 文章が書けないので、その練習として連載を始めたらしいのだが、信じられないくらい読みやすい。うどんをツルツルとすするように読めた。正直なところ、2024年時点の星野源については背負っているものが大きくなりすぎた結果、存在のパブリック性が必要以上に高まってしまっており、個人的にはそこまで興味を抱けていない。本著が書かれた2014〜2017年ごろは国民的スターとなる一歩手前のちょうどいい塩梅があり、人間味を感じるエピソードが多くオモシロかった。なかでも小学生の頃のエピソードで、嫌がらせしてきた相手に対して脳内報復する描写の唐突なバイオレンスはグッときた。

 彼は役者、音楽、文筆とマルチな才能を発揮しているなかでも、音楽に関するエッセイがやはり一番惹かれた。どういう気持ちで音楽の制作に向き合っているか、どのように制作しているのか、また楽曲やアルバムの背景など、知らなかったことがたくさん書かれていて興味深かった。ブラックミュージックとJ-POPの今までにないバランスでの融合を模索している過程が特にオモシロく、「SUN」はリリース当時「あーそっちいくかー」と虚しく感じた記憶があるが、その意図を知って溜飲が下がった。また細野晴臣とのエピソードは、細野晴臣をレコメンドする文章として一級品で色々聞いてみたくなった。

 2024年の今読むと伏線回収される話がいくつか収録されている点も趣深い。一つはパートナーである新垣結衣とのエピソード。てらいなく彼女を褒めており、芸能界ど真ん中の二人がパートナーになる前に、男性サイドがこんな形で思いを文章で残しているケースはないのではないか。そんな意味でも貴重なものと言える。

 もう一つはライブでのノリ方について。今年出演したフェスで「みんなで手をあげるのをやめましょう」と観客を促したところ、ツイッターを中心に燃えていた。しかし、2016年時点で彼は同様の意見を本著で述べている。そもそも「自由に踊ってほしい」というメッセージなのだが、2024年の今ではこんなことでも燃えてしまう。自分に対するネガティブなムードを当時からすでに察知していたかのように、批判、批評に対して過度なアレルギー反応を示していたのも印象的だった。「常に前向きに、ポジティヴに」という生き方を否定したいわけではないが、「嫌いなものを口に留め」という彼のマインドセットは悪い意味でいえば、我慢や服従を促していないか?と感じてしまった。「人それぞれの生き方がある」とディスクレーマー入れていたものの、今や彼の言葉は多くの人の言動を左右する可能性があるからこそ、余計なお世話だとは重々承知の上で、自己主張をエンパワメントする存在になってほしいと勝手に期待してしまう。このあと、どのような心境の変化があるのか、ないのか、二作目を読むのが楽しみになった。

2024年11月8日金曜日

まとまらない言葉を生きる

まとまらない言葉を生きる/荒井裕樹

 以前から印象的な表紙を何度も見かけて気になっていた中、友人がおすすめしてくれたので読んだ。タイトルどおり、言葉をめぐるエッセイで、著者がコミットしてきた障害者運動を軸に現在の日本語を考察している一冊で興味深かった。

 日々暮らす中で気になった言葉を巡るムードに関する考察がなされ、そこに障害者運動から見えた景色が付加される構成となっている。著者の言葉に対する着眼点は鋭く、普段使っている言葉の中に感じる違和感を余すことなく言語化しようと試みていた。著者の特徴として言語の両義性に注目している点が挙げられる。一点ポジティブに見えるような言葉でも、ひっくり返すとネガティブに捉えられる。それは自分の都合だけを考えるのではなく、他者の眼差しを考える、とりわけ社会のマイノリティである障害者の活動に従事してきたからこそ養われた言語に対する感性なのだろう。

 介護施設で提供されるおでんが刻まれていた話が一番興味深かった。施設サイドとしては、事故を防ぐこと、また個別対応による労力を避けるため、効率を目的として、おでんを刻んで提供したが、著者の知り合いは「刻まれたおでんは、おでんじゃないよな」といって不満を述べる。日本の社会は「仕方ない」と諦め、和を乱さないことが美徳になる場面が多いが、このように小さいと思われることもあきらめてしまえば、その諦めてしまう心は際限なくどこまでも追いかけてくる。自分の考えを主張する必要性と妥協点のバランスについて「おでんを刻む」という想像もしないシーンから引き出されるだなんて斜め上の発想すぎる。

 また、繰り返し登場する「降り積もる」という動詞は、今の言論空間のアナロジーとしてこれほど納得感があるものはない。それはSNSのUIの影響が大きいと考えられる。次から次へと上から言葉が降ってきて、下へと流れていく。フォローしている人の言葉に絞ることもできるが、今や「おすすめ」というランダムな言葉の集積がデフォルトになり、それはまるで雨や雪のように質と量をコントロールできない。そうして降り積もった言葉は時代の価値観の形成に寄与する大きな存在として眼前に立ちはだかるのであった。

 言葉を軽く見る現状は、社会を軽く見ることと同義だという主張は本著の核心部分である。生産性、生きる意味、権利といった言葉を絡めて、我々の人生が軽視される可能性について思いを巡らせており、ここ数年は同じようなことを感じていた。他人の権利が侵害される様を指くわえて見ていると、いつのまにか自分の大切なものも奪われてしまうかもしれない。そんな想像力を強く喚起する一冊だった。

2024年11月7日木曜日

黒人音楽史 奇想の宇宙

黒人音楽史 奇想の宇宙/後藤護

 最後の音楽でゲストに登場していたり、菊地成孔との対談がウェブに出ていたりで自分の興味の琴線に触れること間違いなし!と思って読んだ。タイトルどおり黒人=アフリカ系アメリカンの音楽について、体系立てて説明されている一冊なのだが、その角度があまりにもイル過ぎる。黒人音楽に関する既存認識との乖離が凄まじいが、それゆえの圧倒的なオリジナリティ、そして文献をベースにした足腰の強さと説得力は圧巻だった。

「黒人音楽史」と銘打ち、ブルース、ジャズ、ファンク、ヒップホップといった各時代を代表するジャンルをアーティストベースで包括的に議論している。この手の本の場合、史実をざーっとまとめてフォーカスポイントを一部用意するスタイルが基本だが、そこに哲学や人文学の見地を踏まえた見立てを当てこんでいくことで、結果的に全く見たことないパースペクティブが提示される摩訶不思議な本だった。

 何より恐ろしいのは膨大な脚注である。批評においては、そのパースペクティブの斬新さを追い求めるあまり、無根拠な「思い込み」に類するものも少なくない。しかし著者は「そんなハンパ野郎は蹴散らすのみ!」と言わんばかりに愚直なまでに論理と根拠を詳らかにしている。本著は黒人音楽が好きであればあるほど、納得しづらいある種の逆説性を孕んでいるが、この膨大な引用の背景にある知識と読書量に唸らざるを得なかった。

 ヒップホップ好きとしては、このジャンルにおいて最も重要視される「リアル」について『ムーンライト』を透かしながら、その危うさについて繰り返し疑問を呈している点が印象的だった。さらに合わせ技で「クール」について、ジョージ・クリントンのファンク観を通じて相対化する考察も、日本のヒップホップにおける最近のクール偏重主義に対する新たな視点を得ることができて勉強になった。やはり道化がいないと息がつまるのだ。

 内容としてはイルだが、手法自体は真っ当な批評であり、そのギャップが興味深い。ただ批評において、対象と一定の距離を取る必要があるので仕方ないとはいえ、ここまで音楽自体に対する主観的な要素(思い出や曲に対する感情など)が排除されていると、一端の黒人音楽好きとしては複雑な気持ちになった。あくまで見立てを楽しめる素材としての黒人音楽の話に終始しているからだ。(だからメロディという音楽成分を多分に含む「ソウル」というジャンルはスキップせざるを得なかったのでは?という邪推)本著内で繰り返し登場するフランケンシュタインのアナロジーを拝借すれば、著者の主張のために、いじくり回されてツギハギにされてしまったように感じる。しかし、それはヒップホップのサンプリング手法であるチョップ&フリップとも言える。つまり、私自身が信仰するヒップホップ原理主義でもあるからこそなんとも言えない気持ちになった。本著の補助輪として『最後の音楽』の著者がゲストの回を改めて読むと理解が深まったので併読するのが吉。