スピード・バイブス・パンチライン/つやちゃん |
わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論に続く著者による日本のヒップホップ批評本が出たので読んだ。今回の取り組みはトリッキーでヒップホップと漫才、ヒップホップとファッション、それらのかけ算から導き出す新たな視座がフレッシュだった。日本のヒップホップは若者を中心にかつてない人気を獲得しながら規模が拡大している中で何が興味深いのか、最も丁寧に言語化している一冊だ。
漫才とヒップホップ。両者の共通点は人の心を動かす「しゃべり」だとしてタイトルにもある三項目にフォーカスしてそれぞれを批評的に論じていく。点と点を結び線を紡いでいくスタイルであり、そんな見方をするのかという驚きの連続だった。漫才師とラッパーの共通点として個人的に感じているのは批評に対して本人やそのファンからカウンターされるケースがあること。「おもろい/おもろない」「かっこいい/ダサい」の二項対立といった安易な議論へと回収されがちだ。そこに抗うようにラップ、漫才からどれだけ意味を見出せるか、このゲームのオモシロさに気づいたとき、それぞれのカルチャーをさらに楽しめるようになるのは間違いない。
漫才とラップの両方ともある程度知識があるので著者のアナロジーについてすべて納得する訳では正直なかったけれど、めちゃくちゃ刺さるものもあった。特にパンチラインのチャプターが白眉だ。ZORNとタイムマシーン3号を交えた押韻論はこれこそ漫才、ラップの比較によって単なるラップの押韻論以上の飛距離が生まれていて感動した。また霜降り明星、Watsonを比較しつつボケとパンチラインがモジュールのように配置されているという指摘は今の漫才、ラップを理解する上で大事な要素であろう。たとえば最近リリースされたMIKADO『REBORN TAPE』はそのモジュール配置のアプローチからWatson以上に切実なコンテキストが立ち上がっておりラップのスタイルが日夜進化していく、その最前線を楽しむことができる。
インタビューパートではヨネダ2000の漫才がどうやって作られたかに迫っており興味深かった。批評パートでも書かれていたが愛がトラックで誠がラップであるという見立てはまさしくその通りであり本著の命題を裏付けるかのようなテンポとウケに対する回答もあった。(全然関係ないけど「リズム芸能人」と言えるセンスに脱帽)そしてラッパーサイドはDos MonosのTaitanを召喚。日本のヒップホップ村の外にいるラッパーかつポッドキャスターとして強烈な批評的眼差しを携えた彼と著者による対話は「現代におけるしゃべり」という広範な議論になっていた。これはこれで十分オモシロかったのだけど、やはり村サイドのラッパーのインタビューも欲しかった。たとえばTohjiのインタビューであれば、著者のバックグラウンドにある音楽に対する多彩な知識とのシナジー効果が大いに期待できるし、いわゆるヒップホップライターでは拾いきれない部分がたくさん引き出せたはず。リリックの意味論とかめっちゃ聞いてみたい。
マーケティングの観点で考えれば前半パートの漫才とラップの対比がわかりやすく売りやすいかもしれない。しかし著者の本領が発揮されていて、なおかつうるさ型の村人たちにとっても価値が高いのは後半パートのヒップホップとファッションを交えた批評だろう。冬の時代に比べて格段にラップでお金を稼げるようになり、リリックにおけるファッションのフレックスが飽和している最近、この視点で考察することは今まで以上に意味を持つ。前作でも片鱗を見せていたものの、本著ではさらに先鋭化されておりファッションを起点に年代を問わず日本のヒップホップの曲を横断しまくりながらクリティカルにもほどがある新鮮な見立てが連発されていた。著者の脳内でどんな風にラッパーの歌詞がアーカイブされているのか、頭の中を覗きたくなるほどである。ヴェルサーチェ、グッチ、ルイ・ヴィトンなど各メゾンの発音からのアプローチも大変興味深いのだけども個人的に刺さったのはラストのスニーカーとジーンズのくだり。色の対比が素晴らしく、これは著者にしか書けないし批評のオモシロさが一番詰まっているチャプターだと言い切れる。
ラッパー、漫才師など作った本人が情報発信しやすくなったインターネット以降の世界では本人が意図していない情報や見立ては「間違い」だと処理することに慣れ過ぎた結果、批評を過小評価、無効化する流れは今も加速している。しかし本著ではその流れに抗うかのごとく星を見つけては星座を編み続けている。この営みの尊さを多くの人が理解、共有することでヒップホップのカルチャーはさらに大きくなるに違いない。
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