行儀は悪いが天気は良い/加納愛子 |
1作目のエッセイが好きだったので2作目も読んだ。今回は追憶編とでもいうべきか学生時代の話を中心に過去に思いを馳せるエピソードが多い。同郷、同世代ということもあり個人的な記憶とオーバーラップする部分も多く懐かしい気持ちになった。
ウェブ連載のエッセイをまとめた一冊となっており冒頭からネタ切れとの戦いについて言及されているが、それゆえ過去の引き出しをあけざるを得なかったのかもしれない。ノスタルジーとニヒリズムがちょうどいいバランスだった。前述のとおり同郷、同世代の共感がこれでもかと襲いかかってきた。とくに市バスで囲碁教室に通っていた話はほぼ全く同じ感覚を味わったことがある。今でこそスマホで検索してどのバスに乗ればいいかはすぐに分かるので間違うことは少ないかもしれない。しかし当時の大阪市のバスのどこに行くのか分からないムードは半端ではなかった。私は雨の日、塾に通うときに乗っていたが毎回ドキドキしていたし財布を落としたこともある。(返ってきたことが未だに信じられない)そんなことを数十年ぶりに思い出しつつ、大阪のおっちゃん、おばちゃんがいるどストレートな「ザ・大阪の家族」の様子は大阪を出て十数年経った今では一種のフィクションのようにも思えるのであった。
著者が並の芸人と異なるのは言葉への感度の高さ、言い回しの上手さ。特に後者は小説を書くようになったことも影響しているのか、かっこいい。一部引用。
私だけが芸人になった。きっと少しだけ、自分自身に対する期待値がまわりの友達より大きかったのだ。そして何より、日常の中で交わされる意味をもたないやり取りに固執していた。誰の心にも一瞬しか咲かなかった言葉たちが私の中でだけ沈殿していき、取り出して遊びたいと思ったときには誰もいなくなっていた。
ねこだけじゃない。赤ちゃんも洋服も誰かの言い間違いも、「かわいい」という感情を抱かないと生きていけないことが怖い。でも「ねこがかわいい」が特別に怖い。いや、本当は怖くない。本当は、猫もかわいかった。はなとさくらがかわいくて幸せだった。そんな過去が積み重なって今が形作られた。
読んだタイミングは完全に偶然なのだが、今話題のふわちゃんとの友人関係についても一章丸ごと使って言及している。彼女の今回の言動は世間的に許容できない人がたくさんいることは理解できるが、そもそもまともなキャラではないことを本著を読んで思い出した。忖度しない単刀直入な物言いや言動を皆でオモシロがるだけオモシロがって、その対象がピュアなものに世間の想定以上のエグい角度で向かった結果とはいえ、ここまで残酷に切り捨てられるのは少しかわいそうな気もする。
近年のお笑い賞レースの巨大化(著者の言い方を借りればオリンピック化)に関する話も興味深かった。皆がM-1、KOCなどの賞レースに向けて劇場でネタを「かけていく」そこでは目の前のお客さんを審査員扱いして、その日の出番自体をないがしろにしているのでは?とお笑い純度が高い著者ならではの指摘がなされていた。行儀は良くないかもしれないが、本当に思っていることを言える芸人が好きなのでこれからも応援したい。
私はそれがめちゃくちゃ気持ち悪かった。「オリンピックやないねんから」と思った。みんなオリンピック思考が好きなのが嫌だった。じゃあ、来年から大会がなくなったらどうするのか。この大会自体も、かつては一人の芸人が提案したアイデアだったことは気にならないのか。
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