言葉が違えば、世界も違って見えるわけ/ガイ・ドイッチャー |
早川書房のセールで積んでおいたのを読んだ。言語と認知について、鶏が先か、卵が先かの議論を中心に展開していて興味深かった。日本語と英語の二つの言語しか読み書きできないので想像もしない議論が多く新鮮。特に言語は思考のベースであり複数の言語で相対化しづらいからこそ本著のような存在は未知の世界への扉として機能してくれる。
本著では色の議論が半分以上を占めておりメインのトピックとなっている。紀元前のギリシャの詩人ホメロスの韻文をUKの著名な政治家グラッドストンが研究する中で、色の記述の不自然さから古代の人たちの色の認知能力が低く、人類は長い時間をかけて色の認知を進化させてきたのではないか?という話が議論の発端となっている。このとき色盲のように実際に淡い色しか見えていない可能性と、色は今の人類と同じように見えているが、それを表現する言語を持っていなかったか?のいずれかになると想像がつく。しかしどちらが正しいのかは簡単に説明できるようなことではなく本著ではユーモア、アイロニーを含めつつ丁寧に解説している。時系列+物語的な語り口なので、今流行っている漫画の「チ。」が好きな人は興奮するはず。つまり、今となっては当たり前のことも当時は大きな議論になっていて多くの人間が真実を明らかにしようとアプローチを繰り返した。その営みの尊さを感じることができた。と同時に、今この瞬間も未来人からすれば「まだその議論してんの?」となると思えば趣深い。
日本語・英語しか使えない人間からすると、名詞に対する性別付与に関する議論が一番オモシロかった。ヨーロッパ圏の言語に多く見られる男性名詞、女性名詞の存在が人間の認知に影響を与えていることを示唆する実験結果が示されているらしく特定の対象を男っぽい、女っぽいと潜在的にイメージしながら話しているのは全く想像がつかない。明らかに合理的ではないが、芸術の観点から見れば一つの単語内に本来の意味に加えて性別の情報も乗っかっていることで表現の幅が広がっている、という話がかなり興味深かった。(特に無生物を使った隠喩による詩の解釈)そして衝撃だったのは位置を示す言語の話。右左上下ではなくすべて方角で指し示す言語があるらしく、それも幼い頃から訓練すれば当たり前になっていくところに人間の可能性を感じた。
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