2025年7月31日木曜日

サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍

サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍/菊地成孔

 著者の本は見かけるたびに読んでおり、その中でもあまり見かけたことのない一冊をゆとぴやぶっくすで発見。積んであったので読んだ。著者の見識の広さはもはや言うまでもないが、そこに格闘技まで含まれていることを知ったのは『あなたの前の彼女だって、むかしはヒョードルだのミルコだの言っていた筈だ』を読んだときだった。なぜ今読んだかといえば『1984年のUWF』『2000年の桜庭和志』を読んで下地が整ったからである。そのおかげで、著者のバイブスをふんだんに味わうことができた。

 副題にあるとおり、著者が神経病を患ったことも影響してか、格闘技から五年ほど離れていた中、著者の格闘技語りに目をつけた編集者が執筆を打診。そして、2004年大晦日のPRIDE観戦をきっかけに「解凍」され、格闘技語りを再開するという背景で書かれた本となっている。前半はインターネット掲示板(!)で著者が書いていた格闘批評、後半はPRIDEを含め実際に会場で観戦したライブレポート&論考という構成だ。

 「成孔節」という文体が明確に存在し、こと批評において、これだけオリジナリティを出せる人が今どれだけいるのだろうかと、いつもどおり打ちのめされた。2000年代前半で、著者が比較的若いこともあいまってノリノリで今読むとオモシロい。(それゆえにキワドイ発言も多いのだが…)特に注釈量が異常で、なおかつその注釈では収まり切らないほどに言いたいことがあるようで、紙面の都合で割愛されている見立てがたくさんあった。また、まえがきのあまりの見事さに「粋な夜電波」の口上をレミニス…復活しないのだろうか。(定期n回目)

 プロレス、格闘技と与太話は相性がよく、なんなら与太話がしたくて見ているところだってあるわけだが、その相性の良さが抜群に発揮されており、他のジャンルを語るときよりも好き勝手に、縦横無尽に語っている印象を持った。その中心となっているのはPRIDE語りである。ピーク期の大晦日でカードの並びがエグい。今では定番となった「大晦日に判定、駄目だよ。KOじゃなきゃ!」が五味から発せられたり、ノゲイラ vs ヒョードルがあったり。特にミルコ、シウバに対する批評的な見方が興味深かった。

 『1984年のUWF』は佐山史観であったが、著者はどちらかといえば前田史観でUWFを捉えている。本著を読んだことで両方の視座を得ることができた点は収穫だった。『1984年〜』では総合格闘技の始祖としての佐山を神聖化していたが、佐山は佐山で彼なりのきな臭さがあることを知った。そして、前田の煮え切らなさを父殺しの神話でアナライズしている様が見事でうなりまくった。さらに終盤にかけてHERO'sで前田が前線復帰。HERO'sのポジションを考察しながら、その崩壊を予想しつつ、それでも前田の孤独を受け入れるというエモい文章は批評の中でも抑えきれない前田への愛に溢れていた。

 上記の前田に関する言論然り、日本ではプロレスが発展していく流れで、総合格闘技が誕生してきたわけだが、その歴史を踏まえているかどうかは総合格闘技に対する見方に違いが出ることに気付かされた。たとえば、RIZINにおける皇治の色物カードはガチの人からすればノイズでしかないだろう。しかし、プロレス的な思考があれば、その戦いから導き出されるストーリーや意味を紐解こうとする。そこにロマンを感じるかどうか。今の社会情勢からすると「正しさ」を希求するあまりに「ガチ」が正義となりがちだが、そこを迂回できる余裕がほしいものだ。

 文庫解説でも触れられているように、一種の文明論にまでリーチしているあたり、著者の慧眼に打ちのめされた。なかでも世界を「途中から見る連続テレビドラマ」であるとする人生論からプロレス論へ展開していく流れは最高だった。

 格闘技はツイッターを中心とした言論空間がシーンの中心なので、こういうまとまった批評を読む機会はほとんどない。(強いていうなら青木のnoteか)だからこそ昔のものだとしても、こういった本を読むことで自分の目や見識を養っていきたい。

2025年7月26日土曜日

THE DIALOG AND SOMETHING OF SCANDINAVIA 北欧記録

THE DIALOG AND SOMETHING OF SCANDINAVIA 北欧記録/10 years later

 先日来、何回か登場しているcommon houseという本屋を経営するお二人は、10 year laterという名義でZINEを作成しており、先日お店に伺った際に購入した。旅行記は臨場感があってオモシロく、何よりお二人の人柄を感じるような文章がZINEならではだと感じた。

 2023年6月に訪れた北欧三カ国(フィンランド、デンマーク、スウェーデン)の旅行について、日記形式で綴られている。旅行記のZINEというと、カラー写真もりもりで、その横に軽くテキストが添えられている、みたいなイメージを持っていた。しかし、本著はむしろその逆で、文字でびっしり埋まっており、たまに写真という構成。活字中毒者としては、最高だった。また、リソグラフ印刷による独特のざらりとしたテクスチャーが、プライベートな旅情と絶妙に噛み合っていて、「自分もリソグラフで何か作ってみたい」と思わされた。

 最大の特徴は二人で書いている点だ。同じ一日でも、それぞれ別の視点で日記を書いており、これが新鮮だった。読み進めるうちに、同じ一日の描写の違いから、それぞれのキャラクターが浮き彫りになっていく様が興味深かった。当たり前だが、同じものを見たり、食べたりしていても、それぞれ感じ入るものは異なるし、ときに重なることだってある。こうした二重の視点によって、二人の旅がより立体的に浮かび上がってくるのだ。

 旅行にいく場合、そこで何を大事にするかの価値観はそれぞれだ。二人はわかりやすい観光地にいくというよりも、その街の生活に身をおいて体験することに重きを置いている。私もどちらかと言えば二人のスタンスに近く、卒業旅行でヨーロッパに訪れた際、その価値観ですれ違い、気まずくなったことを思い出した。

 旅行記ではあるが、単純な記録というよりも、旅行を通じて何を思い、何を考えるか、にウェイトが置かれている点も読み応えがあった。今は本屋を経営されているが、本著を作ったタイミングでは二人で何かを模索している最中だったようだ。巻末にあるポッドキャスト的な二人の会話の文字起こしは、三十代になると抱える「自分は何者で、どうやって生きていくのか」という問いに真摯に向き合っていて興味深かった。

 また、このタイミングで読むとSayakaさんによる以下のラインが刺さった。エコーチャンバーありきの今の社会において、少しでも気を抜いていると自分の世界に凝り固まり、偏った見方をしてしまう。そんなとき、旅行は自分の世界、見識を広げる貴重な行為だなと改めて考えさせられた。こうも暑いと家にばかりいがちだけども、書を捨てよ町へ出よう!(クーラーの効いた自室より)

自分の今いる場所だけが世界ではないこと、自分とは違う色んな人がいること、色んな暮らしがあること、色んな文化や言葉や慣習があること、知らない場所や言葉に心細さや苦労を味わうこと、人それぞれの喜びや悲しみやストーリーがあるということ。人生の中でそれらを知っていくことは、自分という人間を作っていく中でとても大きいことなんだろうと思う。

2025年7月25日金曜日

今日もよく生きた~ニューヨーク流、自分の愛で方~

今日もよく生きた/佐久間裕美子

 先日、common houseで行われている植本一子さんの写真展を見に行った際、著者の佐久間さんがたまたまいらして、その場でサインしていただけるとのことで本著を購入した。「こんにちは未来」での若林氏との丁々発止のやりとりをいつも楽しんでいるのだが、その背景にある佐久間さんの今の考え方がより深く伝わってくる内容で興味深く読んだ。

 副題どおりNY在住の佐久間さんが自分の愛で方=セルフケア、セルフラブについて、あますところなく綴っている。日本では「ご自愛」という言葉が普及し、自分に対するケアを大切にするムードが醸成されつつあるが、欧米ではさらに進んでいて、セラピーにかかることが日常的だ。佐久間さんがセラピーで自己分析した内容に基づいて、セルフケアへとつなげていく過程をみると、セラピーを通じて自分を客体化していくことで楽になる部分があることに気付かされる。自分自身で客体化できているつもりでも、自然とブレーキを踏んでしまっている部分が少なからずあり、言語化を通じて内なる感情を引き出し、クリアにしていくことの有用性を感じた。

 特に印象に残ったのは、NYでサバイブするために「強い存在」として自分を位置づけてきた佐久間さんが、年齢を重ねるにつれて弱い部分も含めて自己開示できるようになっていく過程だ。アクティビストとしての精力的な活動の裏側で、文章だからこそ開示できる深く繊細な部分がある。終盤にかけてはセクシャリティ、子どもを産むこと、父の死といったパーソナルなテーマが次々と語られ、数々のストラグルに対して「今日もよく生きた!」とタイトルそのままの言葉を送りたくなった。

 「How are you?」 カルチャーに関する論考も興味深い。日本では「調子どう?」から会話が始まるケースは少ないわけだが、英会話教室に行くと、毎回のように必ず「How are you?」と聞かれる。そのときに「調子よくないと言うのもアレか…」と思って、なんとなく「I’m good」と毎回答えていた。実際の自分の感情と乖離した表現を口にすることのモヤモヤがあったのだが、このやり取りは相手を慮ったケアの一種だから、素直に表現すればいいのだと思えた。

 また、日本の「バチ」の概念が自責の念を強める遠因となり、呪いのように心に忍び寄るという指摘も鋭い。なんでもかんでも「自己責任」で結論づけてしまう社会的な圧力に抗うためのセルフケアという文脈は、今を生きる多くの人にとって必要なことだろう。

 内容としては自己啓発に近い部分があるが、単なる方法論ではなく、その背景にある状況や考えがセットで書かれているため、ケーススタディとして読むことができる。人生の先輩による指南とでもいうべきか「ここに石があるから気をつけな」と先回りして教えてくれるようだ。たとえば、先日の選挙結果をふまえると、コロナ禍における誤情報による「別れ」が辛かったという話は、これから日本でも現実味を帯びてくるのかもしれない。

 極度の天邪鬼体質なので、自己啓発的なものを敬遠しがちなところがある。それは押し付けがましく、資本主義社会において、とにかく利口に生きていくためのライフハック的な要素が強いからだ。しかし、本著では佐久間さんが色々な情報を見聞きしながら、自分の中で生まれた考え方について、人生をご機嫌に過ごすための「人生の道具箱」として整備しているから参考になった。一次情報を確認して自分ごとにしていく作業は、真偽不明な情報が飛び交う中では今後ますます必要かつ重要な能力になってくるだろう。何かに触れたとき、自分がどう思うか、そしてどんな人生を生きていくのか、主体性を取り戻すためには格好の一冊だ。

2025年7月24日木曜日

1984年のUWF

1984年のUWF/柳澤健

 先日読んだ『2000年の桜庭和志』の前日譚的位置付けとのことで読んだ。私は小学生からプロレスが好きで、父が録画していた新日本プロレスやノアを夢中で見ていた。当時、特に惹かれていたのは派手な技を繰り出すレスラーというより、西村修や鈴木みのる、ヤングライオン時代の柴田、後藤のような選手たちだった。黒いショートタイツに身を包み、ゴッチスタイルのクラシックなレスリングやハードな打撃で魅せる、いわゆる「ストロングスタイル」の象徴的なレスラーたちである。そんなスタイルが好きだったからこそ、やがて「強さ」を追い求める気持ちはプロレスを超え、総合格闘技(MMA)へと移っていき、今ではすっかりプロレスから離れてしまっている。

 なぜこんな自分語りから始めたかといえば、本著はプロレスと格闘技の境目に関して書かれたドキュメンタリーだからだ。その象徴がUWFである。現在、三十代の私にとって、UWFは桃源郷のような存在だった。自分が好むスタイルが大きくフィーチャーされた団体があったなんて…となかば信じられない気持ちだった。ワールドプロレスリングで、UWFが取り上げられるのは過去の東京ドーム大会の新日本 vs UWFインターの対抗戦での武藤敬司 vs 高田延彦。武藤が高田を四の字固めで破ったあの試合だ。今でも覚えているほど象徴的なシーンなのだが、そこに本著のエッセンスがすべてつまっていて驚いた。

 UWFといえば前田日明や高田延彦のイメージが強い。しかし本書は表紙にあるように、初代タイガーマスク=佐山聡にフォーカスしている。総合格闘技の雛形となった修斗の創始者でありながら、表舞台ではあまり語られることのなかった佐山が、いかにして「ガチ」へとシフトしていったのか。その過程が丁寧に描かれている。個人的には前半のプロレスキャリアが特に新鮮だった。初代タイガーマスクの映像は見たことがあったが、佐山が世界トップクラスの人気レスラーだったことは知らなかったし、帰国せず海外でプロレスラーとしてキャリアを積む未来もあったという。そこで登場するのがアントニオ猪木だ。著者の作品を読むたびに思うが、猪木は日本のプロレス・格闘技史の至るところで決定的な判断を下している。このケースでは「本格的な格闘技をやらせてやるから日本に帰ってこい」と佐山を説得したという。もしこの一言がなければ、今のMMAの歴史は違っていたかもしれない。歴史は本当に面白い。

 前回の桜庭本のレビューでも書いたとおり、今やMMAの台頭により、プロレスが結末の決まった一種のショウであることは周知の事実となっているが、UWFの全盛期である1980〜90年代はその点があいまいだった。そして、そのあいまいさに寄りかかるようにUWFは「ガチ」を標榜して既存のプロレスと分岐する道を進んでいく過程が取材と共に描かれていて勉強になった。ガチが進んだ結果、新聞でもスポーツとして取り上げられるほどになったらしい。今では想像もできない世界である。

 UWFは一次、二次、分裂期と各フェーズがあるのだが、そこで起こる人間ドラマが最大の魅力のように思う。「強さ」という同じ目標に向かっていると思いきや、各人の人間臭い思惑が交錯して、組織がどんどん良くない方向に転がっていく様は、客観的に見ていると超絶オモシロい。それは「リアル」をめぐる争いであり、ファンを含めて幻想を膨らませていく様子に既視感があるなと思ったら、ヒップホップの「リアル」論争と重なって見えた。それぞれの信念に基づき、自分なりの「本物」を追い求める。そのロマンこそ、私がプロレスや格闘技、そしてヒップホップに惹かれる理由なのかもしれない

 そして、本著がスペシャルである点は、本著自体がUWFのレスラーおよびファンに対する一種の「プロレス」を仕掛けている構造にある。巻末で触れられているように、本著はレスラーやライター、ファンから多くの批判にを受けた。特に前田日明をはじめとする関係者への取材を行わずに書き上げたことは大きな論争を呼んだ。だが、まさにその挑発的な手法こそが、前田史観一色のUWF史に新しいアングルを持ち込み、UWF語りを再び熱くさせたと言える。これはヒップホップにおけるビーフそのもので、その点でもヒップホップとプロレスの親和性の高さを再認識した。前田日明相手に堂々と「喧嘩を売る」著者の胆力にはリスペクトしかない。事実をもとにどんなアングルを見せるか、それがオリジナリティだとすれば、著者は間違いなく稀代のドキュメンタリー作家であろう。

2025年7月22日火曜日

ほんまのきもち

ほんまのきもち/土井政司

 同じ著者の新刊がリリースされており、その前に積んであった本著を読んだ。DJ PATSAT名義のエッセイ&対談集『PATSATSHIT』がめちゃくちゃオモシロかったのも記憶に新しいが、小説となると打って変わって繊細さが際立っており、著者の何でも書けるマルチプレイヤーっぷりに舌を巻いた。

 本作の主人公は小学生の子ども。その一人称で、小学校や家族との日常が綴られる。描かれているのはごく小さな世界のはずなのに、不思議とダイナミズムに満ちている。これは、自分が子どもと暮らすようになって気づいたことでもあるが、何気ない公園や道端でも、彼、彼女にとっては発見と驚きに満ちている。たとえそれが人形であっても、子どもにとっては「生きている」存在なのだ。大人になる過程で置き去りにしてしまった感覚が、本作ではみずみずしくよみがえってくる。

 クラスで居場所を見つけられない主人公は、自分の立脚点を弟との関係、そして家族とのつながりに見出していく。だが、その大切な弟との間にもズレが生じ、余裕がなくなっていく描写には胸がキュッとなった。自分の中で感情がうまく処理できず、キャパオーバーしてしまう瞬間。そんなとき、誰かがそばにいてくれること。「先生のハグ」が他者による肯定の象徴として描かれており、家族だけではない他者が介在することの必要性を実感させられた。

 子どもの語りで綴られる自然な関西弁の文体も本作の魅力だ。おそらく自身の子どもをトレースしているのだろうが、ここまでなりきって書けることに驚いた。自分自身、大阪出身なので、どうしても子どもの頃の記憶が呼び起こされる。関西出身ではない人が、お笑い的に茶化すニュアンスで関西弁を使う場面には正直苦手意識がある。関西弁が笑いと不可分であることは理解しつつも、その表層的な扱いにどこか浅はかさを感じてしまう。その点、本著は話し言葉で書かれていることもあり、関西の言葉が持つ微妙なニュアンスをすくいとり、方言を駆使した文学として昇華されていてかっこいい。

 だからこそタイトルが「ほんとうのきもち」ではなく「ほんまのきもち」であることに意味がある。つまり「ほんとう」と「ほんま」は「本物であり、偽りや見せかけのでないこと」という意味の上では同じだが、ニュアンスが異なり「ほんま」には主観的な感情や温度がいくらか込められているのだ。皆が追い求める客観的な「正しさ」ではなく当人にとっての「確からしさ」とでも言えばいいのか。自分自身も「ほんとうのきもち」より、「ほんまのきもち」を大事にしたいと思えた小説だった。

2025年7月21日月曜日

それがさびしい


 先日、植本一子さんの写真展で買った会場限定のZINE。ホッチキス留め、A6サイズの手作りのコンパクトなもので、その外見に呼応するように読者に語りかけるような繊細なものだった。

 飼い猫のニーニが病気を患っており、余命幾ばくかという話は別のZINEでも読んで知っていたが、実際にその猫を看取った様子が克明に記録されていた。以前であれば、日記でタイムラインを追うような形式になっていたと思うが、エッセイという形になり、実際の猫の様子と植本さんの考えがシームレスに描かれている。猫の闘病記は『にがにが日記』で初めて読んで、人間さながらの介護が必要なものだと初めて知ったわけだが、ニーニの場合は写真でどういう状況なのか、具体的には片目が摘出されて、顔が腫れているという状況まで知っているので胸にくるものがあった。

 そんなエッセイの中でも、一番心に残ったのは選挙のことだった。今回の結果は正直目も当てられない。前回の衆議院選挙のときに収録したポッドキャストを聞いていると、たった半年前なのに参政党に対して半笑いで楽観視していた。本当に加速度的に何かが始まっている、もしくは壊れているのかもしれない。本著では、自分の心に余裕がなかったり、立場が弱いとき、人はどうしても自分よりも弱いものをはけ口にしてしまうことについて、猫の介護を通じて書かれており、今こそ読まれてほしい。

 肝心の写真展も素晴らしかった。本で読んでいた馬たちの新たなビジュアルをたくさん見ることができて、馬の存在感を堪能することができた。写真展はcommon houseという本屋さんで行われているのだが、経営されているお二人と植本さんが邂逅したのは一緒に出店したZINEFESTで、私もその場に居合わせていた。そして、会場設営はこれまた文フリで仲良くなった予感の高橋さんなので、人の縁を勝手に感じて感慨深かった。

 会期は7月30日までなので、このZINEも含めて一子ウォッチャーの皆様はチェックされるとよろしいかと思います。本屋さんは居心地も、品揃えも二人の個性をたっぷり感じられて最高でした。千歳烏山駅からだと徒歩20分くらいですが、お店の近くにレンタサイクルの駐輪場があるので、駅からレンタサイクルに乗っていくのがおすすめです。



2025年7月20日日曜日

OMSB “KUROOVI’25”


 OMSBのワンマンライブを見てきた。SIMI LABの頃からファンで、ずっと聞いてきたラッパーであるにも関わらず、ワンマンに一度も行ったことないことに気づいて、すぐにチケットを買った。過去に客演で彼がラップする姿を何度か見てきたわけだが、それとは比較しようがない圧倒的なライブのスキル、パワーに圧倒された。高いバイブスで2時間弱スピットしっぱなし、まさにラップの黒帯ホルダーであることを証明していた。

 ライブが始まった、その一声目で「声でか!」と思わず言いたくなるほどにバイブスは満タン。WWWXで何度もライブを見ているが、この日の低音量は本当にハンパじゃなくて、Tシャツがビリビリ震えるほど。最近のインタビューで発言していたヒップホップの定義を有言実行していて信頼できる、まさに「最後のB-BOY」だと実感した。その爆音に一切負けることがないOMSBのボーカリゼーションが素晴らしかった。ストリーミングの影響で同じ曲を繰り返し聞くことが少なくなった今、細かいリリックまで覚えていないことが多いわけだが、鳴り響く重低音の中でリリックがしっかりと聞き取れることに驚いた。その観点で一番印象的だったのは「喜哀」ライブで聞くと、全く異なる感触だった。特に以下のラインが突然グサっときて思わずウルッとした。

みんな大好き お弁当かトレンド 
無能がゴネる コイツ数字取れんの?
地味、派手、古い新しいじゃねえんだよ
お前の知らなかったグレーゾーンを開けんの

 今では、ボーカル入りの曲でラップするラッパーの方がシーンにおいて多数派となる中、OMSBはストイックにガイドなしのインストオンリーで叩きつけるようにラップしていた。歯切れよくラップしているときに「スピット」と表現するが、今日の彼のパフォーマンスを見ると、安易に他のラッパーのラップに対して「スピット」と使えなくなる。それほど「スピット」という言葉でしか表現できない、これぞラップとしてのショウを繰り広げていた。

 そんなことを考えている合間に、この日のハイライトの一つである「黒帯」が始まった。ライブのタイトルにもなっているこの曲にOMSBのライブの醍醐味がすべて詰まっていると言っても過言ではない。例えば、ストリーミングで今この曲を聴いても、その輪郭しか掴めないだろう。リリースから十年が経ち、楽曲が異形の形に進化しており、現場で見なければ、この曲の持つパワーは感じ取ることができない類のものだ。三年連続でワンマンを続ける中で洗練されてきたことが察せられる。柔道の黒帯よろしくにビートとラップが組んず解れつしまくる様は、「ヒップホップ」としか呼びようのない瞬間の連続だった。この日、バックDJを務めた盟友Hi'Specとのコンビネーションも抜群で、音の抜き差しだけではなく、まるでスキャットのようなOMSBの声にならないようなアドリブに呼応するターンテーブリズムが圧巻。全ヒップホップファンが見届けるべきと言い切れる曲だ。

 最近の客演曲を聞くことができたこともワンマンならでは。具体的には、Kzyboostとの「O/G」、Young Yujiroとの「No way(REMIX)」この二曲はOMSBのヒップホップに対する高い理解度ゆえに、相手の良さを最大限に引き出す受け身の上手さが発揮されており、それを生で聞ける機会は貴重だった。客演ではないが、「Memento Mori Again」をNORIKIYOの「Do My Thing」のビートに乗せて披露した場面も最高だった。「いいか Young gun」というライン繋ぎで、同じローカルをレペゼンするOGに向けたリスペクトの表現として、これほど粋な出所祝いはない。また二人で曲を作ってほしいと思わずにはいられなかった。

ビートジャックは「Blood」や「Lastbboyomsb」 でも行われており、これらもライブだからこそ聞ける醍醐味。ビートジャックしながら「ヒップホップの話をしようぜ!」で大合唱できる空間なんて、ヒップホップがこれだけ流行っている今でも、OMSBのライブしかないだろう。「Blood」は2Pacの「Do for love」だとわかったのですが、「Lastbboyomsb」のビートがわからずモヤっているので、識者の方はご教示ください。

 一度暗転する場面があり、そこからJJJ追悼パートへ。「ActNBaby」、「Bro」、「心」といったJJJとの共演曲を彼のバースも含めて披露していた。特に「心」はJJJのガヤの音質が良いためか、ステージ袖で声出しているのかと思うほど、むき出しの生の声が会場に鳴り響いており、JJJがいないことの寂しさが浮き彫りになっていた。(「心」はライブ音源をスペシャ、STUTSにお願いして用意してもらったようですね…納得!)アンコールでも、JJJ逝去がOMSBにとって、いかに大きな出来事だったか話していたし、ライブの最後の曲はJJJに向けた書き下ろし曲であったことからも彼に対する強い想いが伝わってきた。

 OMSBの魅力として、ラウドな面とセンシティブな面の相反する魅力が同居している点が挙げられるだろう。それはヒップホップが一人称の音楽であり、人間性そのものが滲み出る音楽だからこそ表現できるものだ。ラウドなヒップホップを爆音で聞いて自分をエンパワーしたいときもあるし、死をモチーフにしたような内省的で繊細なリリックから自問自答することもある。この両方をシームレスに行き来できるラッパーはシーンにもそう多くない中で、OMSBとJJJは上記の点で同じベクトルにいたラッパーと言える。ゆえにJJJの不在がOMSBに与えた影響は察するに余りある。そんな中で、最後に「RIPじゃねーんだ、忘れんな。曲聞け」と言っていたことに溜飲を下げた。最近Twitterをまた見るようになって「JJJが亡くなったことをアテンション稼ぎに使ってない?」と感じる瞬間が時折ある。当然、死との距離感は人によって異なり、同じように辛い思いを抱えた人が連帯できるのは理解できるのだが、そこに承認欲求が見え隠れすると薄ら寒い気持ちになる。これは完全に私見であり、OMSB本人がどこまでを意図していたかはわからないが、一つ確かなことは私たちはJJJというラッパーを忘れてはならないということだ。

 自分にとってこの日のハイライトは「Scream」だった。この曲は対人関係で辛いときに何度も聞いた曲で、個人的にOMSBのキャリアで一番好きな曲だ。2ndアルバムに収録されている中で特別目立つ曲ではないのだが、人の多面性を歌った曲でここまでの完成度を持った曲に未だ出会ったことがない。まさか生で聞けるだなんて感無量だった。

 そして、近年リリースされたOMSBの楽曲の中で最も好きな「大衆」という曲を遂に聞くことができた。メロウなトーンで、BPMも比較的スロウで、パーソナルかつ機微のあるリリックにも関わらず、なぜこれだけ気持ちが昂ぶり、盛り上がるのか?と思うほど会場に一体感が生まれていた。それはやはりOMSBが表現している景色に多くの観客が投影できる普遍性があるからなのだろう。このバースは子どもがいる今、一層沁みる。

見ないフリしていた普通や常識の定義
それでも誰にも変え難い愛しのLadyからなんと愛しのBabyが産声をあげた
さあお前も今日から大衆だ

さらにビーフが話題の今はこのラインだろう。

誰かが誰かをディスほらねこういうとこ
よそ見ばかりしてるから見失う

 こうやって時代や環境の変化、聞くタイミングで、リリックの感じ方が変わっていくこともヒップホップの面白さの一つだなと感じた。ヒップホップが好きであれば、どうしても件のビーフに気を取られてしまうわけだが、そこで何かを見失っていることに改めて気付かされた。

 アンコールは唯一無二なラップアンセム「Think good」からスタート。客演なしでほとんど休憩することなく、あれだけラップしてきたのに、まだその出力なのかとラップフィジカルにただただ脱帽。そこからEテレの番組の主題歌である「Toi」これもOMSBだからこそ書けるリリックで、実際に番組を見ると、この曲に込めたOMSBの思いが感じ取れるので番組もおすすめだ。

 ヒップホップのライブをたくさん見てきたが、この日のOMSBは日本で一、二を争うレベルのクオリティだった。OMSBというラッパーが、こんなにもかっこよく、信頼できる存在として日本にいる。その事実を改めて声を大にして言いたくなる夜だった。

2025年7月18日金曜日

生きる力が湧いてくる

生きる力が湧いてくる/野口理恵

 おすすめしていただいたので読んだ。前情報を全く入れないまま読んだ結果、一人の女性の壮大な人生に巻き込まれていくような読書体験で驚いた。「世の中には色んな人がいる」と口で言うのは簡単だが、壮絶な環境において、それでも人生を続けていく覚悟が本著にはたっぷり詰まっていた。

 著者は編集者を生業としているようで、文芸誌も自身で発行するようなバイタリティのある肩書きとは裏腹に、母を自死で亡くし、その後に父が病で他界、さらに兄を自死で亡くすという壮絶すぎる半生を過ごしたらしく、自分の過去から現在まで、あまりにも赤裸々なエッセイ、私小説の数々に読む手は止まらなかった。

 フィクションではよく描かれる「天涯孤独な人」が、実際に存在し、ただ悲しみに沈むのではなく、「生きる」ことに向き合っている様子が生活の機微を含め、丁寧に描かれている。冒頭、実家のガーデニングにまつわるほっこりしたエッセイから始まり、装丁やタイトルからして、日常系のエッセイ集なのかと思いきや、いきなり母親の自死の話が始まり、そのギャップにも驚かされた。

 これまでの人生で辛いことがたくさんあったことは経歴からして容易に想像つくわけだが、そんな御涙頂戴な展開の話は入っていない。むしろ、その逆境をどうやってタイトルどおり「生きる」ためのエネルギー源としていくか、肉親が不在の中でとにかく自己を肯定し、自分をブチ上げていく。無条件で愛してくれる存在がいないから、自分のことを愛する。まさにご自愛。そんなエピソードがたくさん入っているので、セルフケアの文脈に位置付けることが可能で、文字どおり「生きる力が湧いてくる」人もいるだろう。

 ただ一つ、個人的にしんどく感じたのは、兄の自死をモチーフに、兄の視点から語られる小説があったことだ。他人の家族の話であり、どう書くかは著者の自由だ。ただ、自死に至るまで、相当な葛藤があっただろうと想像がつく中で、あまりにも自死を単純化しすぎている気がした。それは繰り返し述べられるように著者にとって「死」があまりにも日常的に存在することも影響しているのかもしれない。しかし、だとすれば、より自死に対して慎重な取り扱いが必要なように思う。

 とはいえ、家族偏重主義に対するカウンターとしてはこれ以上機能するエッセイはないだろう。家族を大切にすること自体は否定されるべきではないが、他人に対して「家族を大切にする」価値観を一種のテンプレートとして押し付けることに違和感がある。先日見たバチェラー・ジャパンの最新シーズンで、やたらと「家族が〜」と連呼されていて、それが無条件に受け入れるべき価値観として提示されていることにモヤモヤしていたので、本著における家族観には溜飲が下がった。

 歳を重ねれば重ねるほど、死との距離は自然と縮まっていく。しかし、死は順番どおりには訪れない。それは突然で、理不尽なものだ。そんな死と、私たちはどう向き合えばいいのか。壮絶な人生を生き抜いてきた人が書いた言葉だからこそ、本著はそのヒントをくれる一冊だった。

2025年7月17日木曜日

初子さん

初子さん/赤染晶子

 エッセイ集『じゃむパンの日』がオモシロかったので読んだ。本業である小説のフィールドでも、その唯一無二の感性は健在というより、さらに強烈に発揮されていた。この二冊からして書き手としての才能は明らかで、もう亡くなってしまっていることが悲しくなる。palmbooksが復刊を手がけるのも読めばわかる小説だった。

 タイトル作を含め中篇が二つ、短編が一つで構成されている。いずれも三人称で描かれている女性が主人公の物語だが、それぞれの時代も立場もまるで違っていて、三つの異なる世界が広がっている。共通しているのは、どの物語でも「女性が働くこと」にフォーカスさかれている点だ。主人公が労働を通じて感じる違和感や停滞感について、豊富なメタファーを駆使して描いている点が本著の魅力と言えるだろう。

 普段読む小説の中で、これだけメタファーが多用する作家はいないので新鮮だった。このメタファーの鮮やかさはラップのリリックに近いものがある。例えば、「初子さん」では、縫い目(主人公の仕事)→日々→呼吸(母の寝息)という繰り返しの動作を重ねていく様が鮮やかだった。「まっ茶小路旅行店」では、停滞した職場の空気を砂漠に例え、そこに生えているサボテンを自分自身、さらに自分に不似合いなカンザシをサボテンの花に例えるイメージの連鎖もうっとりする。

 停滞している空気、なんの変化もない日常の繰り返しが耐え難く、労働を中心とした生活の中に意味をなんとか見出して、艱難辛苦を乗り越えていこうとする姿は胸にグッとくるものがあった。生きるために働くのか、働くために生きているのか、わからなくなることがたまにあるが、この小説の主人公たちのストラグルを見ていると、後者でありたいなと思う。

 本著のなかでも異質なのが「うつつ・うつら」だ。お笑い、芸事を題材にした歪な小説で、この歪さをどう受け止めていいのか正直戸惑った。売れない女性のピン芸人が舞台に立ち続けるものの、階下にある映画の音がダダ漏れで、自分のネタが映画の音にかき消されていくという、なんともシュールな状況から始まる。そこへ漫才コンビ、九官鳥、赤ちゃんなど、どんどん要素が上乗せされながら「言葉と実存性」みたいな話に変容していく。具体的には、言葉を剥ぎ取られることの恐怖を通じて、己がなんのために存在しているのか、問われるのだ。自分の言葉が剥ぎ取られる感覚は生成AI全盛の現在、誰しもが経験したはずであり、今読むと考えさせられる。ユニークでカオティックな世界観の中でも、そこにある普遍性は、時代を越えて響いてくる作品だった。

2025年7月14日月曜日

今の自分が最強ラッキー説

今の自分が最強ラッキー説/前田隆弘

 文学フリマで買いそびれていたが、立ち寄ったSPBSでゲット。先日読んだ『死なれちゃったあとで』がオモシロかったので読んだわけだけど、やっぱりオモシロかった。この簡素なジャケット、タイトルから、見た目ではなく中身で勝負するんだという気概を感じた。

 「生きている今の自分が最強ラッキーで、アンラッキーだった場合はもう死んでる」という論理が本著のタイトルの由来らしく、その観点で見た過去の出来事に関するエッセイ集となっている。前作も読んでいて感じたが、過去の出来事に対する解像度がとても高くて、まるでこないだあったことかのように、数十年前のことをイキイキして語られている。まるで落語を聞いているようだ。

 本を読んでいて声を出して笑うことはそんなにないが、本著は笑いどころがたくさんあった。実際にオモシロいかどうかと、文字にしてオモシロいかどうか別物であり、著者はその極意を心得ているように映る。実際、このようなことが書かれていた。

会話では「その場限りの揮発性の高い盛り上がり」というのがある。会話を円滑に進める、雰囲気を良くするという意味では大事なのだけれど、しかし言葉そのものに力はない。文字にしてしまうと、取るに足りなさがあらわになってしまう。

擬音、改行、「ですます調」と「である調」のスイッチなど、文体の工夫によって、これだけ文章に躍動感が出るのか!とブログをたらたら書いている身としては勉強になった。

 東京ポッド許可局のコーナーの「忘れ得ぬ人々」というコーナーを想起させるようなエッセイがたくさん載っている。コーナーの紹介文を引用する。

ふとしたとき、どうしているのかな?と気になってしまう。自分の中に爪跡を残している。でも、連絡をとったり会おうとは思わない。そんな、あなたの「忘れ得ぬ人」を送ってもらっています

この観点で見ると、バイト先、職場におけるエピソードが特に好きだった。いずれも仕事場限りの関係性にも関わらず、関係の密度は高い。自分の人生に大きな影響を与えているにも関わらず、仕事場から離れると関係性が終わってしまう。人生は出会いと別れで構成されているのだなとしみじみした。

 人生が無数の選択の積み重ねで構成されていることは考えれば当たり前なのだが、本著を読むと自分の人生の分岐点を今一度考えさせられる。過去の出来事を思い起こす場合、だいたい辛かったことや恥ずかしかったことである。本著の考え方に沿えば、それすらも何か自分の人生の糧になっている。だから今の自分が「最強ラッキー」という考え方は、下手な自己啓発的思想よりもよっぽど自分の人生において役立つに違いない。

2025年7月12日土曜日

SF LIVE IN TOKYO



 Zion.Tが主宰のレーベルSTANDARD FRIENDS(以下SF)のライブが開催されたので行ってきた。レーベルメンバーのうち、今回ライブを行ったのはWonstein、sokodomo、GIRIBOY、Zion.Tである。自分にとって、このメンバーは韓国ヒップホップが好きになったきっかけであるSMTM9ゆかりのメンバーなので、個人的にはかなり感慨深いものがあった。あれから5年経つが、まだ韓国ヒップホップを聞き続けており、その原点となる存在のラッパーたちのライブを見ることができて本当に嬉しかった。会場は渋谷にあるWOMBで正直この規模で見れることに驚いた。前回のPaloaltoのライブもありえない距離感だったけど、このメンツでこの会場で見れる機会は今後なかなかないかもしれない。

 一番手はWonsteinで、いきなり「Freak」で登場して歓喜…!この曲はSMTM9のZion.T&GIRIBOYチームの楽曲であり、自分が一番最初に韓国ヒップホップの想定外のスタイルとレベルに驚いた曲だ。

Wonsteinのラップを生で聞けただけで満足というレベル。おなじくSMTM9の楽曲で「Infrared Camera」も披露していた。彼はシンギングラップというより、完全に歌に振ったときに魅力が炸裂していて、アカペラの歌声が素晴らしかった。まだフルアルバムがリリースされていないので、SFのトーンでどんなアルバムが出るのか今から楽しみだ。

 次はsokodomo。ちょうどアルバムリリースタイミングでのライブであり、この日のMVPだった。そもそも今回出たアルバムが本当にかっこいい。騙されたと思って一曲目だけでも聞いてほしい。キラーチューンがこれでもかと詰め込まれており、最近一番聞いている。

韓国のラッパーはインストオンリーでラップするストロングスタイルが多いが、sokodomoはボーカル入りのトラック、というか音源そのものを流して、その上で歌い、ラップするスタイルだった。まだリリースされたばかりというのも影響しているかもしれない。しかし、その分のエネルギーをステージ上で爆発させていて、とにかく盛り上がりがハンパじゃなかった。 彼はSMTM10で、Zion.T&slomのチームに参加して大きくキャリアが変わったラッパーだ。もともとイロモノキャラだったところから、音楽にフォーカスしたことで才能が爆発した。MCではその片鱗を見せていて、それがまたチャーミングで魅力的だった。あと今回の全アーティストのバックDJを務めていたのが、sokodomoの新作でも客演しているValoというアーティスト。公演終了後にインスタみると、SFのアーティストの作品にコンポーザーで参加しつつ、ソロでも活動しているようで、彼の存在を知れたことは大きな収穫であった。

 三番目はGIRIBOY。日本で何度か単独公演を開催しているのを見逃していて、今回やっと見ることができた。ビートも自分で作り、ラップも歌もこなすマルチタレントであり、その魅力をふんだんに味わえる大人なステージングだった。比較的ポップな曲が多い中でたまに見せるラップのデリバリーの安定感とKREVAがよく言うビートの後ろのポケットにどれだけ乗れるかというところで圧巻のスキルを魅せていた。

 そして、最後はZion.T御大。彼のステージが日本で、しかもこの規模で見れるのかという驚きがあり、このために今日来たといっても過言ではない。それだけ期待していたわけだが、自分の考える「ライブの良さ」について改めて考えさせられるステージだった。その最大の要因は彼のボーカリゼーションにある。WOMBはクラブなので、インストの音量が相当大きい中で彼は声を張り上げることなく自分のボリュームを貫いていた。その姿勢に、彼のカリスマ性を感じた。つまり、観客のライブに対する能動性が引き立てられるのだ。ライブにおいて声がデカいことが正義、正解とされがちな中で、このスタイルを貫き通すことができるから「Zion.TはZion.T」なのだと感じた。 過去曲もふんだんにやってくれて、特に「No Make Up」「Complex」といった定番はもちろん、Primary名義の「Question Mark」を聞けて死ぬかと思った…!そして最新アルバムからは「Stranger」「V」など。特に「V」はMV含め渋谷系オマージュの曲であり、それを渋谷で聞けたことも趣深かった。

 すべてのステージが終わり四人が登場、曲名を失念したのだけど1曲披露したのちに、 sokodomo「MERRY‑GO‑ROUND」のイントロがかかって会場は大盛り上がり。客演参加のWonstein、Zion.Tも揃った完パケで聞ける機会はそうそうないので、かなり嬉しかった。ちょっとポップすぎて、そこまで好きな曲ではなかったのだけど、圧倒的な祝祭感、アンセム感があって皆で歌いながら聞くのは最高な体験だった。

 

これで大団円かと思っていたが、会場からアンコールが発生、SFサイドは想定しなかったようで、急遽sokodomoが「LIE LIE」をおかわりで披露。客演参加のGIRIBOYがいたので歌うかと思いきや、なぜかZion.Tが歌っていた。個人的には「Credit」エンディングで良かったのでは?と思った。

 とにかく日本に来てくれたことに感謝しかないし、充実した時間を過ごすことができた。SFのスタイルの音楽は日本でも絶対人気が出ると思うので、もっと認知が上がって次はさらに大きなステージで皆のライブがみたい。先日チケットが全然取れなかったSUMIN,slomとまとめてお願いします。あと毎回韓国のラッパーのライブ行くたびにMCの内容がわからないのが辛いので、いい加減、韓国語を学んでいきたい。

2025年7月10日木曜日

対談録 太田の部屋(1)書く人の秘密 つながる本の作り方

対談録 太田の部屋(1)書く人の秘密 つながる本の作り方/太田靖久・植本一子

 私のZINEメンターである植本さんが、ZINE作りについて語っている対談本。私が個人でZINEを作り、右も左もわからない中で、文学フリマへ誘っていただき、売る姿を背中で見せていただいたわけだが、本著ではZINE作りのマインドセットさらには具体的なことまで、植本さんの製作におけるノウハウが明かされていて勉強になった。

 本著には、2023年と2025年に行われた二回分のZINEづくりに関する対談が収録されている。植本さんはこれまでの著作において、自分の気持ちについて言葉を尽くしてきた人であるが、この本では製作の背景にある考え方などが対談形式ながら体系的にまとまっている。そもそもなぜ写真家だったところから文章を書くようになったのか、書く際に大事にしていること、本の受け止められ方についてなど、率直に語られていた。

 対談内の質問にあったように、植本さんの本を読むと「ほんとうのこと」が書かれているという印象を抱く。それは植本さんが書くことについて真摯に向き合っている結果であり、同時に「自分を知ってほしい」という動機が、打算ではなく純粋な欲求から出ているからこそ、読んでいる人の心を掴むことができるのだと改めて気づかされた。

 ZINEを自分で作ることの難しさを実感している今だからこそ、各プロセスを細分化、解説してくれている点がありがたい。自分で作ってみてわかったことだが、すべてを自分で担うことは本当に大変なことだ。ZINEの製作、販売にあたっての各プロセスで考えることは山ほどある中で、実際に結果を出してきた植本さんのノウハウが惜しみなく開示されており、ZINEブームの今、参考になる人はたくさんいるはずである。私自身も、在庫バランスや宣伝の難しさを痛感している真っ最中で、やればやるほど植本さんへのリスペクトが増すばかり。その理由は本著を読めばわかる。

 そして、これだけ植本さんから、たくさんのノウハウやの考えを引き出している対談相手の太田さんの質問力も特筆すべきことだろう。植本さんの著作を踏まえながら、表面的なところから深いところまで縦横無尽に確認するように聞いている様は、ポッドキャストを運営する身として勉強になった。そして、太田さんが販売イベントで意識していることが、とても参考になった。具体的には「買います」とお客さんが言ってくれた後に、どう着地させてお客さんの購入時の「寂しさ」を引き取るか。ここで「寂しさ」というワードチョイスがまさに小説家!と思ったし、私はとても苦手なので、意識していきたいところ。現在、三作目を鋭意製作中なので、本著を参考にしつつ引き続き頑張りたい。

2025年7月8日火曜日

LIFE HISTORY MIXTAPE 02

LIFE HISTORY MIXTAPE 02/菊池謙太郎

 一冊目も圧倒的にオモシロかったLIFE HISTORY MIXTAPEの第二弾。『日本語ラップ長電話』を文学フリマで販売していたときに、著者の方が帰り際にわざわざ声をかけてくださり、ありがたいことにZINEを交換させていただいた。今回もいわゆる媒体のインタビューでは拾いきれないラッパーの語りがふんだんに収録されていて興味深かった。

 著者の方が「ラップスタア」というヒップホップリアリティショーのディレクターということもあり、そのコネクションをおおいに生かした人選のラッパーインタビュー集となっている。したがって、同番組の副読本といっても過言ではない。

 「ラップスタア」はリアリティーショーであり、そのラッパーがどういった出自なのか重要視される傾向がある。「ヒップホップは音楽のコンペティションである」という主張は理屈としてはわかるものの、一方で「どの口が何言うかが肝心」であり、一人称の音楽である以上は、その出自と楽曲は不可分であることは事実だ。それゆえ、どういった境遇だったか知ることで楽曲自体の厚みが増すケースは往々にしてあり、本著はその役目を担っている。

 すべてのインタビューが2023〜2024年に行われており、番組を通じて注目されたラッパーたちの「その後」に触れることができる点もオモシロい。皆が自分の人生と向き合いながら、それぞれのスタイルでラップと向き合っている様子が伺い知ることできて興味深い。各人の今の状況を見ると、リアリティショーで結果が出ても、それを生かすも殺すも当人次第だと改めて感じた。

 特筆すべきは、前作同様、「貧困からのサクセスストーリー」といった型通りのナラティブに収まりきらない人生が、丹念に掘り起こされている点だ。インタビューの文字起こしも、ラッパーたちの話し言葉のニュアンスを極力残そうとする姿勢が伝わってきた。AIによる自動文字起こしが一般化しつつある今だからこそ、こういった生の言葉が持つラフな輪郭と強度は、より一層意味を帯びてくるだろう。

 登場するラッパーたちは若い子が多いので、必然的に子どもの頃の話が多く、それらがトリガーになって自分の子どもの頃を思い出した。特にKVGGLVのインタビューで語られる「不良への生半可な憧れを持つことの危うさ」という話は、ガラの悪い場所で育った自分としても身につまされるものがあった。また、娘を持つ父親という立場では、彼女がどういった人生を生きるのだろうかと考えさせられた。

 ラッパーである彼ら、彼女らがヒップホップにどれだけ人生を救われたのか、直接的な言及がなくても伝わってくる点が素晴らしい。音楽を使って自己表現できることの豊かさとでも言えばいいのか。前作でも感じたが、境遇を問わずラップを書くことが一種のセラピーとしての機能を果たしているようだ。

 個別の話をすればキリがないものの、個人的に冒頭のKen Francisのこのラインはかなりくらった。

自分のために自信を持とうとは思わなかったんですけど、俺がそのせいでグレてんのを見てる親とか友達とかが悲しそうだったんで。自信持ってると周り喜ぶし、みたいな。みんなのバイブス上がるから自信持てるようにしてみたら楽しくなってきましたね。高校生ぐらいから。

最も鮮烈な印象を残すラッパーはTOKYO Galだろう。ヒップホップを聞いていると、リリックやインタビューで不幸な生い立ちを知ることがあるが、本著で話されていることは数段ギアが違っており、番組で放送されていたのは氷山の一角だった。次のNowLedgeのインタビューと流れで読むと、社会の実相を反映しているとも言える。インタビュー自体は収録した時系列で並んでいるようだが、ミックステープゆえの「順番のマジック」が起こっていた。

 最近はアングラの若手のラッパーの曲をたくさん聞いている中で、リリックのユニークさ、鋭さに驚かされることが多く「彼らにどういうバックグラウンドをがあって、こんな曲を書いているのか知りたい!」という好奇心が尽きない。それゆえ、今年の「ラップスタア」で誰がエントリーしてくるのか、今からとても楽しみにしているし、著者がそんな将来有望な若手ラッパーたちに聞き取りしてくれる日を心から楽しみにしている。

2025年7月7日月曜日

2000年の桜庭和志

2000年の桜庭和志/柳澤健

 少しずつ読み進めている著者の格闘ドキュメンタリーの中でも一番楽しみにしていた作品。その期待に応える、いや大幅に上回る超絶オモシロさで、過去作とも繋がる格闘ロマンサーガだった。

 桜庭和志のキャリアを縦軸に、日本〜世界におけるMMAの発展を横軸に描くドキュメンタリーとなっている。ただ時系列に事実を追っただけでは、ここまでオモシロくなるわけはない。中心にいるのは、圧倒的天才であり、強烈なキャラクターと強さを兼ね備えた桜庭和志という稀有な存在だ。桜庭和志がUFC殿堂入りを果たした際のインタビューから始まるわけだが、正直「UFCと桜庭の関係」と聞いてもピンとこない読者が多いだろう。しかし、本著はそんな疑問を丁寧かつ力強く解きほぐしてくれる。読み終えた後に持つ桜庭和志像は今までよりもクッキリしたものになった。

 現在では、プロレスと総合格闘技(MMA)は完全に別物になっており、それぞれのファンダムが形成されているが、2000年代後半くらいまではその境目がきわめて曖昧だった。主に新日本プロレスのレスラーたちが総合格闘技の試合に出場しており、プロレスからMMA好きになった私はその結果に一喜一憂していたのであった。良い意味でも悪い意味でも大元は桜庭和志が言い放った「プロレスラーは、本当は強いんです!」だと言える。この言葉は、グレイシー一族が黒船として登場してから、彼が具現化していく。高田延彦がヒクソン・グレイシーに二度敗戦したことで、本当の「強さ」が何かわからなくなってしまった日本のプロレスファンのもとに颯爽と現れた救世主が桜庭だった。世代的に後追いなので、桜庭和志の衝撃をそこまで理解できていなかったのだが、本著を読んで、その格闘IQの高さがひしひしと伝わってきた。それもこれも筆者の圧倒的描写能力によるものであり、もう著者以外の格闘ライターのルポでは満足できない気さえする。特に総合格闘技史上、ベストバウトの呼び声が高いホイラー戦は白眉。実際Youtubeで映像を見てさらに感動した。グレーゾーンではあるものの、すぐ見れるのはいい時代になったものだ。

 タイトルどおり、桜庭和志の評伝なのだが、「評伝」という形式の強みも存分に活かされている。自伝とは異なり、本人の語りに他者の視点や検証を加えることで、立体的で多層的な人物像が浮かび上がってくる。桜庭本人へのインタビューだけではなく、当時の関係者、対戦相手の証言まで丹念に取材しており、その積み重ねが「記録」としての信頼性と「物語」としてのオモシロさを同時に成立させている。近年では「批評には意味がなく、本人の言葉がすべて」という乱暴な議論を見かけることもある。しかし、本著のような作品に触れると、誰かが記録し、検証し、分析することでしか見えてこない景色があることに気付かされた。

 単純な評伝で終わっていないところが本著のもっとも優れた一面であろう。桜庭和志を通じてMMAの歴史を紐解いているからだ。ルールすら定まらなかった創世記から、世界的な人気スポーツへと至るまでの過程を、一人のファイターの歩みと重ねることで、歴史が血の通った物語として立ち上げている。今はRIZIN、UFCともに大きな人気を博しているが、そこに至るまでの長い道のりは知らないことだらけで驚いた。今でこそUFCの方が圧倒的にレベルも人気も高い状況ではあるが、PRIDE全盛期、UFCは今よりも下火であり、世界最強が集まっていたのはPRIDEだったという話は隔世の感がある。

 一番印象的だったのはオープンフィンガーグローヴの採用のくだりで、今でこそ当たり前になっているものにある背景を知ることができて勉強になった。そしてMMAの背景として最もボリュームが割かれているのは柔術である。柔術の歴史を丁寧にわかりやすく解説してくれた上で知るグレイシー柔術の成り立ち、そして桜庭和志と邂逅するまでのストーリーラインの美しさは完璧なプロットと言いたくなる完成度だった。

 また、当時の格闘シーンの歪みや問題点について忌憚なく書かれている点に真摯さを感じた。特にプロモーターサイドの無茶なマッチメイク、今でこそRIZINの顔にもなっている榊原氏の立ち回りは特に目を引いた。「地獄のプロモーター」と笑うことは簡単だが、それは選手のことを考えたマッチメイクではないことをオモシロおかしくして誤魔化しているだけだと気付かされた。また、桜庭といえば、秋山との試合におけるヌルヌル事件が有名だが、秋山が柔道家時代にも同じようにクリームで道着を掴みにくくしていたなんて知らなかった。相当な悪意のある行為にも関わらず、本人の禊がほとんどなされないまま、ONEで逆輸入されて免罪されている状況はしんどいものがある。この視点で見ると、近年ONEで行われた青木と秋山の試合は、桜庭と青木のRIZINでの戦いも踏まえると、是が非でも青木に勝って欲しかったものである。(試合後の桜庭の一言が泣ける…)

 格闘家の半生とキャリアをまとめた動画は今ではYouTubeにたくさんあって、知らないUFCファイターのエピソードとか見てしまうのだが、こういった本に出会うと活字にしかない情報の圧縮量と熱量を改めて感じた。MMA好きな人はマストで読んでおくべきクラシック。

2025年7月4日金曜日

死なないための暴力論

死なないための暴力論/森元斎

 随分前に二木氏のツイートで知って読んだ。直前に産獄複合体を題材にした小説『チェーンギャング・オールスターズ』を読んでいたこともあり、必要な「暴力」に関する論考はどれも興味深かった。

 間違いが許容され辛い潔癖な世界の中で、暴力は忌避される方向にある。理不尽に他人の権利を侵害するような暴力は悪であることは当然として、本著では「暴力を十把一絡げに悪とみなしていいのか?」という議論が終始展開している。つまり、のほほんと「非暴力」を掲げていても、国家の暴力的振る舞いには太刀打ちできないのだから、カウンターとしての暴力が必要なのではないか?ということだ。本著における暴力はただの殴り合いや戦争のことではない。税の徴収や家父長制といった制度がもたらす抑圧も含まれる。そう考えると「自分には関係ない」なんて言える人はいないだろう。

 人間は潜在的に暴力を内包し、それがいつ、どのような形で顕在化するかに焦点が当たっている。今の世の中で暴力と無関係に生きることは不可避である。そんな前提のもとで古今東西の暴力議論と実例を紹介してくれている。

 例えば、イギリスの女性参政権を獲得するまでの市民運動、メキシコでのEZLNによる自治のエピソード、クルド人によるロジャヴァ革命などが紹介されている。その背景にある考え方や、暴力性があったからこそ社会が変革したのではないか?というアナキストらしい意見が展開されており興味深かった。いずれもあくまでカウンターとしての暴力であり、暴力が先攻行使されていないことがくり返し主張されており、これは本著における重要なポイントである。

 新自由主義は今や世界中に広がった思想であり、その暴力性は世界で火を吹いているわけだが、その黎明期における広め方について解説されており、知らないことばかりで驚いた。すべてに市場の原理を導入して淘汰した挙句、上流だけがお金を儲けて、その結果もたらされた荒廃を引き取るのは、下流にいる民衆という話は何回読んでも腹が立つし「勝ち馬に乗れないと負け」という思想は本当に貧乏ったらしくて嫌になる。そんなブルシットに対しては、やはりカウンターをかまさないとやりきれない気持ちになる。

 抑止力的な意味合いでも暴力の必要性が議論されている。暴力をふるわれるのは、こちらが非暴力で無抵抗だからであり「やられたら出るとこ出るぞ」というマインドが大切だということは、ここ十数年の国の無策っぷりで痛感している。国民が舐められているのは明らかだ。

 個人に対して暴力的な気持ちを抱くことは加齢と共に減ってきてはいるものの、対国家、権力という視点で考えれば、いつだってそんな気持ちである。選挙だけがカウンターできる手段だと思い込まされているが、間接的抗議であるデモの価値について分析がなされていた。短期的成果ではなく、中長期的な社会変革を見据えた視点は、日本のデモ観に対する有用な意見だったと思う。デヴィッド・グローバーがかなり引用されており、改めて彼の論考の鋭さは本当に貴重なものだったのだなと痛感した。そして亡くなっていることに途方に暮れるのであった…

 自分の中に国家を内在化し、結果的に排外的な振る舞いをする人が増えている中で、国家と同じヒエラルキー構造ではなく、非国家の形で民衆が起点となり反操行を繰り広げる必要性を痛感した。本著でも取り上げられている大麻の問題もその一つと言える。国家の枠組みを盲目的に信じているだけで本当にいいのか?国とは別の枠組みで権利を考えてみることをあまりにも忌避しすぎてないか?そんなことを考えさせれられた。

 終盤では、暴力が起こる手前における民衆同士の相互扶助の議論が展開されており、グローバーの提唱する「基盤的コミュニズム」の議論が刺激的だった。というのも子育てをしていると「基盤的コミュニズム」の欠如を著しく感じるからだ。特に首都圏はひどく、目も当てられない場面に幾度も遭遇している。しかし、先日関西に久しぶりに帰ったときに感じた子どもに対する「コミュニズム」的な視点やアプローチには逆に驚かされたことを記しておく。

 そして最後に引用しておきたいのは、前述したメキシコのEZLNマルコス副司令官による例え話。

警察に不満があるからといって、自分が警官になることで解決しようとする市民はいないだろう。もし警察がうまく機能しないのなら、市民は警官になろうとするのではなく、より良い警官を配置するよう要求するのだ。このことはEZLNの提起に通ずるところがある。われわれは権力を批判する。しかし、だからといってわれわれは権力を排除しようとしているのではなく、適正に機能し、社会の役に立つ権力を求めているのだ。

国家、権力に対して批判すると、すぐに「てめえがやれや」「代替案は?」という言葉が飛び交う今こそ、この言葉は有用だと思う。暴力のない世界が理想だけども「なめんなマインド」は常に忘れないでいたいと思わされた一冊だった。

2025年7月3日木曜日

ゆとぴや・びぶりおてか 小さな本屋の読書日記

ゆとぴや・びぶりおてか 小さな本屋の読書日記

 ゆとぴやぶっくすの店主の方による読書日記。埼玉にある数少ない個人書店の一つであり、よくお店に行っている。今回、ZINE PALというイベントで、自分のZINEをお店に期間限定で置かせていただいているのだが、店主の方の読書日記ということで、ZINEを納品するタイミングでゲットした。本屋の方がどんな本を読んでいるか、好きなのか、意外に知らないわけだが、この日記ではジャンル問わず、読んだ本の記録がどさっと載っていてオモシロかった。自分の読んでいる本のジャンルがいかに狭いか、「本」と一言にいっても様々なものがあることを改めて思い知った。

 人がどういう順番で何を読んだか、そんな読書日記は本好きとしては読むのが楽しい。忖度なくシンプルに思ったことがズバッと書かれていて読みやすかった。いつからか本の感想を大仰に書いてしまいがちで、それは最近ますます加速しているのだが、このくらいフランクな語り口、かつ端的に芯をくって書いてあるほうがわかりやすくていい。冗長であることの良し悪しを考えさせてくれるきっかけになった。

 読んだことがある本の感想は共感や違いを見つけて楽しめるし、なかでも一番助かったことは「知っているけど、なんか読むのは気乗りしないな〜」と思う本の感想だった。たとえば、川上未映子の『夏物語』は一時あまりにも本屋で押し出しされ過ぎて辟易としていたけど、今回日記を読んで、読もうと決意した。『テスカトリポカ』も同じく。

 読んだことのない本も、優しい語り口でブレイクダウンしてくれているので「読んでみようかな?」と思わされるものが多かった。具体的には『羆嵐』、金井美恵子の作品各種など。紹介されている本からの関連本マッピングもとても参考になる。AIにはできない精度のレコメンド領域がまだまだあることがわかる読書日記。

2025年7月2日水曜日

チェーンギャング・オールスターズ

チェーンギャング・オールスターズ/ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー

 前作『フライデー・ブラック』が滅法オモシロかった著者による二作目。今回は短編集から長編にフォーマットが変わったものの、オモシロさはあいかわらずぶっちぎり…!いわゆる日本の少年漫画的な世界観が全編にわたって展開されつつ、彼のシグネチャーといえる、アメリカにおけるマイノリティへの差別構造が見え隠れするレイヤードスタイルは健在。これぞエデュテイメント!

 アメリカでは刑務所に収監される人数が膨大になる中で、囚人たちを安価な労働力として搾取する「産獄複合体」が社会問題となっている。以下リンクやNETFLIXのドキュメンタリー映画『13階段』に詳しい。

現代の「奴隷制」アメリカの監獄ビジネス 黒人「搾取」する産獄複合体の実態

本著は、その刑務所産業をSF的発想で拡張し、刑務所ごとに受刑者たちをチーム編成させ、対抗形式で殺し合いをさせる、そんな格闘イベントとして殺し合いをエンタメ化してしまうという、ある種の残酷ショーが舞台。物語は殺し合いの参加者や周辺人物の群像劇として描かれている。キャラクターの魅力が本当に素晴らしく、さながら少年漫画。各キャラには複雑な背景と武器が設定され、ゲームのようなランク制度まで存在する。世界観の作り込みの強度は本当に高く、友情・軋轢・強大なヴィランの登場など、子どもの頃から慣れ親しんできた格闘漫画フォーマットが踏襲されている。ページをめくる手が止まらなかった。

 なかでもメインで描かれるのは、No.1とNo.2の実力を誇る女性ふたり。彼女たちは愛し合う存在でもあり、最強同士の百合的関係性が本作の大きな魅力となっている。少年漫画的世界観との差別化ポイントであり、マスキュリニティに満ちた刑務所産業へのカウンターとしても機能しているのが印象的だった。

 表面だけ見ていれば楽しいバトルエンタメ小説に見えるが、そうは問屋が卸さない。なぜなら参加者たちは全員受刑者であり、なおかつその戦いで敗れることは、そのまま死を意味するからだ。つまりこれは、新たな形の死刑制度にほかならない。バイデン政権下では死刑制度の見直しが進んでいたが、再びトランプが就任したことで死刑執行が活発に行われる可能性が高い。著者はそんな状況を憂慮していたのだろう。これは死刑制度に代表される懲罰願望が拡大する機運がアメリカにあるとも言えるだろう。

 現在問題になっている深刻な現実をエンタメにレイヤードしているわけだが、そのスタイルが斬新だ。例えば、大量のTMマークは、いかに民間企業が刑務所産業に食い込んでいるかを示す象徴的な表現である。また、受刑者が参加にあたってサインする契約書の描写から、このバトルプログラムのルールを知ることになわけだが、これは完全にシステムと化している現在の刑務所産業を暗に示唆しているようにも受け取れる。

 印象的だったのは、バトルを含めて受刑者が小説内で亡くなるたびに注釈で著者が弔いの言葉を書いている点だ。バトルフィクションかつ展開が早いので、命が軽く取り扱われてしまうところを意図的にブレーキを踏み、人間としての尊厳を取り戻そうとしており、そこに著者の真摯さを感じた。

 刑務所産業への批判にとどまらず、刑務所そのものが孕む暴力性にも意識的である。特に独房における拷問シーンが強烈だ。インフルエンサー(!)と呼ばれる棒を使うことで、通常の何倍もの痛みを引き出して囚人たちを追い込んでいく様は読んでいて辛かった。このように囚人を過剰に抑圧した結果生まれてしまう悲しきモンスターの誕生はマジで漫画!と感じた。

 痛みを増幅する方向ではなく、収監されているあいだ一言も話すことができない刑務所もあり、そちらは窒息しそうになる息苦しさが表現されていた。どれもがエクストリームな設定ではあるが、刑務所で行われている拷問に近い暴力を念頭においたものであることは「謝辞」で展開される情報ソースの多さから明らかだろう。

 好みはわかれる作品かもしれないが、ここまで振り切ったスタイルはこれで良しと思える。次はもう少し内省的な物語を読みたい。