米国在住コリアンの作家が描く在日コリアンの物語。4世代に渡って第二次大戦前からバブル期までの日本を舞台にした壮大な大河ドラマで、かなり読み応えがありオモシロかった。上巻で登場人物をはじめとした物語の骨格が作られ、じっくりと世界観を頭の中で構築/堪能。下巻でそれが爆発していくという印象で特に下巻のページターナーっぷりはかなりのものだった。
そもそも「在日コリアン」と呼ばれる人々がどのような立場にいる人のことを示すのか?曖昧にしていた自分の認識が整理された上でかなり特殊な立場であることを改めて知る。敵国に祖国を支配されて日本にきたはいいものの今度は帰るところがなくなってしまった、この悲しみはユダヤ人が置かれた立場を想像させられた。アイデンティティを失ってしまう二世/三世の物語は移民大国アメリカの十八番であり数多くの作家の物語を読んできたが、日本でも同様の境遇が発生していることをなかなか想像しにくい。それは日本が移民を限りなく制限していて「単一民族国家」という幻想を追い求めるからだろうけど今後の人口減少/高齢化社会においてはいつまでも呑気なことを言ってられない訳で本著のような物語がさらに普遍性を持つ社会が目の前に迫っているとも言える。そのときに何が重要かといえば人は人種で判断できないということだ。しかし物語の中では在日コリアンであることに起因した残酷な出来事がいくつか起こってしまう。また血は変えられないという話が繰り返し登場して、そこで何度も苦悩する登場人物たちがいて、彼らのその苦悩する過程を教訓にして我々は同じ過ちを繰り返さないようにしなければならない。小説内で安易に解決させずに自分で考えることを促す、これは解を提示するような啓発書では得られない、小説だからこその魅力だ。
本著のタイトルにある「パチンコ」と人生を重ね合わせるメタファーが非常に秀逸だった。これに限らずとくに下巻はパンチラインのつるべ打ちだった。一部引用。
モーザスは、人生はパチンコに似ていると思っている。ハンドルを調節することはできても、自分ではコントロールできない不確定な要素があり、そのことも心得ておかなくてはならない。何もかもあらかじめ定められているように見えて、その実、運まかせの要素や期待が入りこむ余地が残されたこのゲームに客が夢中になる理由はモーザスにも理解できた。
許すことを学ばなくてはならないよと諭したかった。何が大事なのかを見きわめなくてはならないと。過ちを許さずに生きていくことは、息をして動きながらも死んでいるに等しいと。
なあ、人生ってやつには振り回されるばっかりやけど、それでもゲームからは降りられへんのや
ゲームに勝つのはほんの一握りだけで、ほかの全員が負ける。それでも人はやはりゲームを続ける。自分こそ幸運な一握りかもしれないと期待する。自ら望んでゲームに参加する者たちに腹を立てる筋合いはないではないか。悦子はこの重大な側面で失敗を犯した。子供たちに希望を抱くことを教えなかった。自分は勝てるかもしれないという、およそ不合理な可能性を信じることを教えなかった。パチンコはたわいもないゲームだが、人生は違う。
「ぐはぁ」と思わず声に出してしまう出来事とそれに対する各自の立場。それはどこで生まれて何を見て育ったかによって異なり人間は環境にたぶんに左右されてることも痛いほど伝わってきた。人生はパチンコ。Apple
TVでドラマ化される際には多くの日本人俳優がフィーチャーされることを切に祈る。
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