2025年1月31日金曜日

ヤンキーと地元

ヤンキーと地元/打越正行

 著者が亡くなったことを知り、文庫で読んだ。沖縄の暴走族を中心とした若者たちの実態をエスノグラフィーを駆使して描き出しており、めちゃくちゃオモシロかった。あとがきで岸政彦氏が書いているとおり、上間陽子氏の裸足で逃げるとセットで読むと、沖縄の若者の生活の実態がくっきりと立ち上がってくるはずだ。

 本著は、社会学の「参与観察」と呼ばれる手法で沖縄の若い男性の生活に迫ったもので、著者の博士論文が商業出版の形でリリースされたそう。沖縄は観光地、リゾートという一般的な認知がある中で、米軍基地の存在を含めた産業構造の歪さについて、若者の就労状況から丁寧に明らかにしている点が本著の白眉である。それは単純な産業の売上から第三次産業中心であることがわかる、という数字の議論ではない。幾つものレイヤーが重なりあって社会が形成されており、人間が営む生活、社会が一筋縄や綺麗事では片付かない現状を具体的な生活史の積み上げで描いている。男性の若者たちのギリギリでヒリヒリする生活の数々が閉鎖性を浮き彫りにしていて、自己責任では片付けることができない地獄に近いものを感じる場面もあった。(特に暴力の連鎖)

 私はヒップホップが好きで、タイトルの「ヤンキーと地元」は日本のヒップホップど真ん中のテーマである。特に沖縄は近年ヒップホップのメッカといっても過言ではないほど、メジャーからアンダーグラウンドまでさまざまなラッパーを輩出している。「社会が荒んでいるときにヒップホップが輝く」とも言われるが、沖縄のラッパーの台頭は、本著で書かれている内容と無縁ではないはずだ。なかでも、以下の楽曲は本著と直接的な関連があるといえる楽曲だろう。2022年に起きた事件で、スクーターに乗った高校生に対して、警察官が警棒を差し向けて右目失明の重傷を負わせた。その事件の判決に対する抗議する曲となっている。沖縄の若者にとって警察との関係構築が死活問題であることは本著でも書かれているとおりだが、2020年代に突入し、新たなフェーズに入っているのかもしれない。

 貧しい暮らしから、ラップで成り上がり、地元をレペゼンしつつ結果的に地元に還元する、そんな「フッドの美学」をさまざまなラッパーの曲で耳にしてきた。しかし、そんなわかりやすい物語の背景には有象無象の屍があり、地元を大切にするといえば美談に聞こえるが、実態はそんなに甘いものではないことが本著では詳らかにされている。地元に残らざるを得ず、その硬直した縦社会はまるで監獄のように若者たちを捉えて離さない。その中で何とか自分の裁量を手にしようとサバイブするものもいれば、地元の空気に耐えきれず逃げ出すものもいる。そんな若者たちの育った背景や仕事、生活の様子をつぶさに観察、レポートしており、著者が書いていなければ「いなかった」ことにされてしまった人々の声を本著では読むことができる貴重なものだ。そして、これは沖縄に限らず日本の閉塞した地方ではどこでも起こっていることかもしれないと想起させられる。

 読者として客観的に見ると、ぎょっとする話もたくさん出てくるのだが、それらをひょうひょうと乗り越えて、十歳ほど離れた若者たちの懐に社会学者として入り込んでいくなんて、誰でもできることではない。著者だからこそできたフィールドワークであり、文庫版に矜持として書かれたあとがきは興味深かった。ネガティブな意味で捉えられる「パシリ」を参与観察の観点で捉えれば、別のベクトルで観察対象に迫ることができるという論考はかなり新鮮だった。「ポリコレ」の先にある想定外、そこに生きる人たちに迫ることがパシリの社会学だ、というステイトメントは今の時代に力強くみえる。しかし、そんな著者の新しい著作をもう読むことができないと思うと、読後はやり切れない悲しい気持ちでいっぱいになった。

社会調査は権力を有する調査者がいまだ明らかになっていない人びとの声を聴き、いないことにされている人びとの存在を明らかにし、そこから既存の社会や知のあり方を批判的に問うことを目的とする。だが、既存の社会や知のあり方から彼らを調べる限り、それは既存の知のあり方を再生産し強化することにしかならない。パシリとしての参与観察は、そのような状況を乗り越えうる調査方法なのである。

2025年1月30日木曜日

長電話

長電話/高橋悠治、坂本龍一

 坂本龍一氏が亡くなってから、その偉大さ、興味深いパーソナリティに気づき、著作を読んでいるのだが、その中でも昨年リリースされた本著はポッドキャストを運営している身からすると、かなり気になっていた。というのもポッドキャストは長電話を録音してウェブ上で配信したようなものだから。実際、私が収録するときはウェブカメラはオフで収録しているので、形式は電話そのものだ。本著は今のポッドキャスト時代を先駆けるように「会話」がいかにオモシロいかを具現化した一冊だった。

 本著は、1983年の12月15〜17日にわたり石垣島に滞在した二人によって、合計4回行われた長電話が文字起こしされたものとなっている。よくある対談本、ラジオ本と決定的に異なるのは文字起こしの粒度である。会話を文字化するのであれば、相槌や間を取るための言葉など、不要なものは排除し、文の構成なども徹底的に編集し読みやすくすることが常だろう。しかし、本著では不要であろう言葉まで余すことなく音を文字で残している。それは何かを咀嚼している音や、何かが落ちたような音まで、電話に乗ってきた音すべてを拾い上げる勢いだ。実際に音声を聞いたわけではないが、おそらくほとんど手直ししていないはずであり、そういった編集によって立ち上がる生々しい会話の数々には包み隠されていない本音が見え隠れする。

 生な会話であるがゆえに読みにくさはあり、本当にただの長電話なので、あっちこっちへ話は寄り道しまくる。ゆえに読み終わったあと「あれ、結局何の話だっけ?」という手応えのなさが残ることは否めない。本を読むことで、結論をすぐに求めるような考え方に気をつけているつもりだったが、それでも本著を読むと自分も時代の病に侵されていることに気づいた。80年代のゆるい空気がそのまま残っており、情報の量や速度が今と異なっているからとはいえ、自分が時代の中に生きていることを突きつけられたのであった。

 音楽に関する二人の考えがとにかく興味深く、先見性の高さに驚く場面も多い。また、バリバリ前に出て、フェイムを得たいという気持ちがあまりなく、音楽が好きで、それを表現したいというスタンスが伝わってきた。特に人の前で音楽を演奏することについて、ここまで考えているアーティストが今いるだろうか。デジタルとアナログの過渡期ということもあり、音楽をどのように作り、演奏し、聞くかなど、ポップスのフィールドでも活躍する坂本氏と、現代音楽サイドの高橋氏の見解のぶつけ合いは非常に興味深かった。

 SNS時代においては、ある意味では活字至上主義であり、その確実性、情報の圧縮率はときに有用ではあるものの、それゆえの息苦しさは付きまとう。ゆえに音声メディアの情報圧縮率の低さ、そして「会話」におけるいい意味での無駄や矛盾を私たちは欲しているがゆえに、ポッドキャストがここまで隆盛してきているのかもしれない。そんなことまで考えさせられる温故知新な読書体験だった。

だいたいそうなんだよね。首尾一貫していないところで、ゴリ押しをしてるってとこがあるからね。ウン。だからやっぱり、こうやって、なんてバカなやつだろうとかさ、いうような感じになることを半ば期待しつつ、電話をして本を作ろうと思ってるわけだよね。

2025年1月28日火曜日

ヘルシンキ 生活の練習

ヘルシンキ 生活の練習/朴沙羅

 2022年に読んだ本で一番オモシロかったと友人から聞いて、文庫化のタイミングで読んだ。いわゆる「北欧礼賛系」の本とは異なる切り口の「北欧リアルトーク」といった内容で興味深く読んだ。

 本書は、2020年にフィンランドへ移住して、子ども二人との生活を営んだ記録、エッセイだ。「生活」と銘打たれているが、育児の話が中心にあり、保育園に通う子どもを持つ身としては、日本の育児を相対的な視点で捉えた話の数々が目から鱗だった。

 前述のとおり、日本ではフィンランドやスウェーデンといった北欧圏のヨーロッパ各国を一種のユートピアのように捉える言説が多く見られる。高い税金に応じた福祉サービスの充実は、少子化対策といいながら、納税額からして納得できるサポートが追いついていない日本からすると眩しく見える。しかし、著者は実際に住んでみて「全部が全部、素晴らしいわけではない」ことをフィールドワークのレポートさながら、実体験をベースにした社会学者の視点で考察しており、エッセイと論文の狭間にある文章のスタイルが個人的に好きな塩梅だった。

 当然ながら、フィンランドのいいところはたくさん見える。最も印象的だったのは、子どもができないことに対して、本人の性格、気質といった属人的な感情サイドにフォーカスするのではなく、能力主義に基づき「スキルが足りてないので練習しましょう」とアプローチする点だ。育児する中で他人の子どもと比較することは避けがたいことであるが、能力、スキルに還元することにより「いつかできるようになる」前提なので、変に焦る必要がないことが腹落ちする。言われてみれば当たり前なのだが「どうしてできないんだろう?」と育児の中では考えがちなので、大いに参考にしていきたい。

 また、保育園が親の就労状況に関わらず、誰でも利用可能であり、保育を受けることは子どもの権利であるという建て付けに驚いた。ゆえに保育園に通う親同士の関係が希薄らしいが、だからといって親が孤独にならないように助けを求められるセーフネットが用意されている。「各人が何かをすり減らして頑張っているから成り立つ」という運要素を可能な限りなくし、当人が申し出れば、公がきちんとフォローしている安心感。わかりやすいサービスの充実度ではなく、こういった思想のベースからして、フィンランドが福祉国家と呼ばれる背景を理解することができた。それは「親が滅私奉公して育児に献身せよ」という無言の圧力がそこかしこに漂う日本とは違った光景である。以下は、そんな違いを端的に言語化していた。

おおまかな工夫をすることによって多様なニーズに応えられるのと、そのおおまかな工夫のなさを個々人がイライラしあったり責めあったりしてカバーするのと、どっちが好きかと言われたら、私は前者の方が好きだ。

 育児に限らず、属人的なものをなるべく排除するのはフィンランドの特徴なのかもしれない。大人の「ソーシャル」の概念も、最初に友人を作って、その友人と何らかのアクティビティをするのではなく、最初にどんなアクティビティをするのかにフォーカスし、そこに人間関係がついてくる。ゆうなれば、最初に友人を作る能力はいらず、何がしたいかだけ決めればいい。日本でも同じようなケースは当然あるだろうけど、フィンランドの方はよりシビアに人間とアクティビティを区別している印象を受けた。

 前述のとおり、社会のあり方を論考するような硬めの学術的内容と、日々の暮らしのエッセイが地続きで描かれている点が、本著を特別なものにしている。顕著なのは関西弁の多用だろう。子どもの話し言葉だけではなく、著者による関西弁が結構な頻度で登場、大阪出身の自分としては郷愁にかられた。標準語で同じ内容を書いた場合、真正面の議論過ぎて角が立ちそうなところも関西弁で柔らかくなっていた。(関西出身ではない方は若干くどく感じるかもしれないが。)

 「いい学校」というチャプターは個人的にフィールした。自分自身はお世辞にもガラがいいとは言えない場所で育った中、友人が私立中学へ行く姿を見ていた。そのとき、自分たちが行く予定の公立中学について、その友人から半笑いで言われたことを思い出した。そのとき「絶対こいつには負けない」と思ったのが、大学に至るまでの勉強に対するモチベーションの一つだったように思う。続編の『ヘルシンキ 生活の練習はつづく 』も早々に読みたい。

2025年1月25日土曜日

生まれつきの時間

inch magazine PocketStories 01 生まれつきの時間

 inch magazineという出版レーベルによるポケットシリーズ。それが「韓国SF」ということで前から気になっていたのだが、先日のZINE FESTで既刊二冊を駆け込みで購入して、一作目である本著を読んだ。話自体もオモシロかったのだが「短編一つだけ」という構成ゆえか、読み終わったあとの余韻が長く残るユニークな読書体験だった。

 現在の人類が滅亡したあとの第二人類の世界が舞台のSFであり、主人公はそんな世界に誕生した新生児である。しかし、赤ちゃんというわけではなく、すでに15歳まで育った状態で、そこから教育を受けて「成長」していく中で、世界の実像を知っていくという物語。15歳から何かと成長を要求されるのは、韓国の苛烈な競争社会のアナロジーであることがすぐにわかる。韓国に限らず、資本主義社会は常に「成長」していくことを前提としており、その資本主義に対する盲目的なある種の信仰をアイロニーを交えて描き出している。ただ、そのアイロニーはアンチ資本主義といった結論ありきではなく、成長することへのプレッシャーに対して「なんでそんなに成長が大事なんですかね?」と読者に問われている気がした。それは、主人公が「何も知らない子ども」という設定だからだろう。

 一種の教育論ひいてはケア論のようにも読める点も興味深い。後半、主人公は親の役割を担うようになり、新たに誕生する命を預かる立場となる。そこで子どもを成長させること、社会で受け入れることの壁にぶち当たる。人は一人では成長することができなくて、他者の犠牲を伴いながら、社会を構成する人間となっていく。保育園に通わせている身からすれば、保育士の方々の献身的なサポート、ケアのおかげで自分の子どもが社会性を身につけていくのを間近に見ており、後半の展開は身近に感じた。一方で、保育園に通っていることで相対的な視点がうまれ、他の子どもとの成長の差が気になることもある。しかし、成長する速度は誰かが決めるのではなく、それぞれの歩幅、つまりは「生まれつきの時間」でいいのだと改めて教えられたのだった。

 訳者あとがきや、著者を含めた対談で、韓国SFの概況について知ることができる点も本著ならではだ。著者の作品は他にも日本語で翻訳されている作品があるようなので、そちらも読みたい。

2025年1月23日木曜日

本業2024

本業2024/水道橋博士

 尾崎世界観の祐介を読んだ際、水道橋博士のメルマガを思い出し、そういえば博士は今どうなっているのだろうかと思って検索してみると、本著が新刊でリリースされていることを知って読んだ。私が本を読むようになったのは、いろんな要因がある中でも、博士の影響が大きいことに改めて気付かされた。

 もともと『本業』というタレント本の書評集があり、それをベースに他の書評原稿、対談などを新たに追加したものが本著である。600ページ超という、とんでもない分量になっているが、しばらくぶりに浴びる博士の軽妙ながら熱量のこもった文体に煽られまくって、三日で一気読みしたのであった。

 『本業』が2008年リリースであり、自分がちょうどテレビをたくさん見ていた子どもの頃のタレント本ばかりで懐かしい気持ちになった。そして、本のレビューを書いているからこそわかる著者のレビューの圧倒的に高いレベルを肌身で感じた。単純な本のレビューというわけではなく、本人が現場で直接見聞きした話を織り交ぜつつ、わかる人にはわかる大量のコードがこれでもかと詰め込まれており、読み応えは抜群だ。本の中身に触れつつ、核心は避けて読者に期待を抱かせるアウトボクシングかと思いきや、懐に入り込み激しいインファイトを繰り広げ、読者の心の深いところに入り込んでくる変幻自在のスタイルでレビューされる本の数々は門外漢でも思わず読みたくなるものばかりだった。最多引用であろう『ルポライター事始』は必ず読みたいし、純粋なレビューという観点でみれば、週刊誌二大巨星について、新たな星座を見出した本著屈指のレビュー『2016年の週刊文春』と『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』も読みたい。

 タレント本が出版されるのは、テレビやネットで切り取られることで、本意ではない自分のイメージが広がっていくことに対して、本という高密度な活字媒体で自らの思いを強くファンに向けて発信することが可能だからだ。SNSおよび付随するサブスクリプションが、今後その機能を代替していく可能性は高いが、物体として残る本はタレント、ファンにとってなくてはならないフォーマットだろう。そして、本人の思いが実直に吐露されていることで、時が経っても味わい深さが残る。本著においても、当時のレビューのあとに2024年時点の各タレントの現状に関する説明があり、あまりの諸行無常っぷりに遠い目になることもしばしばあった。特に今、過去のタレントの行いが大きな社会問題になっている最中に読んだこともあり、過去と現在を比較する意味について考えさせられること山の如しだった。他にも博士がビートたけしの楽屋を訪ねた際に映画を7倍速で見ている場面に遭遇、その後、雑誌でその映画をレビューしていたというエピソードも「倍速視聴」の意味が当時と2024年では全く異なるからこそ、ビートたけしの先見性を垣間見ることができる。

 他人の本に関する書評にも関わらず、読んでいると「博士像」が浮き上がってくる点が興味深い。人生に対するスタンス、本から引用される名言の数々(「出会いに照れるな」など)は、十年前にメルマガを読んでいた当時から時が流れ、自分が立派な中年となった今、さらに刺さるのであった。また、博士の言動について、外野から見れば理解できないケースが往々にあるかもしれないが、そこには博士なりの筋があると同時に、ビートたけしの弟子としての矜持を全うしていることがよくわかった。

世の良識ある「保険だらけの現実」が「命懸けの虚構」を回避し、「安全」な場所へ居続けようとする、その「退屈さ」に俺は耐えられないからであろう。

書評以外の書き仕事のまとめとして『文業2024』としてまとめられるそうなので、そちらも楽しみに待ちたい。

2025年1月22日水曜日

「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ

「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ/長島有里枝

 こんな大人になりましたというエッセイ集を読み、著者の視点がどれも興味深かったので、本業である写真に関する本を読んだ。フェミニズムに関する本は少なからず読んできているが、このスタイル、密度で書かれたものは読んだことがなく、めちゃくちゃオモシロかった。言うなれば「OK余裕、未来は「わたし等」の手の中。」

 90年代に写真史にその名を刻むほど隆盛した「女の子写真」という潮流について、改めて考察したものが本著である。大学院での修士論文として提出された内容を加筆修正したらしく、最大の特徴は、考察している著者がそのムーブメントど真ん中にいた当人であるということだ。つまり、90年代に男性の写真家、評論家に好き勝手に言われたことについて、当人自ら論文スタイルでアンサーしているのだ。今でこそ一億総批評家時代であり、さまざまなベクトルで作品が評価される時代になったが、ネットやSNSがない90年代は、一部の評論家の言説が決定的な評価になってしまい、それを覆すような機会も限られていた。そして約30年後に本や雑誌に書かれていることを丹念に拾い上げて、当事者がすべてに応答していく。こんな本は読んだことがない。しかも、拾い上げ方の粒度が相当細かく、当時の雑誌に掲載されていた発言やちょっとした言い回しまで、事実確認を行うのは当然のこと、その言説が誘導してしまう偏った考えや視点まで逐一指摘していく。批評と印象論は紙一重であり、90年代は論拠に基づかない印象論が今以上に大手を振って歩き、それが正史となってしまった状況がよく理解できる構成となっている。

 男性の写真家や評論家が、女性の写真家たちの作品を「女の子写真」という枠に押し込めて矮小化していた歴史が詳らかに解説されている。「女の子写真」が隆盛したのは、「機材がコンパクトになったり、扱いやすくなったから」という大前提からして間違っていることを丁寧に確認していく姿勢にシビれた。ムーブメントの当事者で好き勝手言われてきた著者の立場からすれば「てめーふざけんな!」とシンプルにブチキレてもおかしくない中で、自分自身さえも客体化し「長島」扱いするスタイルで丁寧にキレている。ゆえに読んでいて、ガンフィンガーを立てる場面がいくつもあった。男性と女性のあいだにある権力勾配、女性に対する特有の年齢の枠など、アンバランスな関係性への鋭い指摘を読み、無意識な発言がまるでバタフライエフェクトのように知らないうちに女性を抑圧することになる可能性に気付かされたのであった。

 作品を評価する際に「女性らしい柔らかい表現」などといった言葉は今でも平気で使われているが、性差を作品の評価へ反映することの妥当性について繰り返し疑問視している。自分が男性なので意識できていなかったが、男性の作品であれば「男性らしい荒々しい表現」とは言わず、単純に「荒々しい表現」と評価するケースが多いのはそのとおりだろう。「女性」という枕詞で別の枠組みを用意するのは、男性が女性を別物扱いしている証左であると著者は喝破していた。

 本著が好きな理由は「権威に奪い取られた自分の主体性を取り戻す」という、どこまでもヒップホップ的なマインドに溢れているからだ。前述のエッセイを読んだ際にも感じたが、著者の世代にとってのパンクは、私にとってヒップホップに代替可能だ。そして、批評に対して、音楽もしくは言葉で明確に応答することは今のヒップホップでも「ビーフ」を筆頭として盛んに行われている。日本では語るよりも、背中で見せる美学を重んじる風潮があるが、今の時代は間違っていることに対して、明確に意思表示していくことが重要であり、そこで歴史を残していく必要がある。なぜなら放置していると「女の子写真」のように誤った形で正史として固定化してしまうからである。本著のように過去を分析、考察し、語り直すことで間違った認識の再生産を防いでいく志の高さには頭が上がらない。

 また、著者の場合「「女の子写真」はすべて間違っている」と論破するわけではない点も重要である。90年代に自分が明確に応答できなかった悔恨を胸に抱きつつ、改めて当時の批評、言論の認識の違いを指摘、「女の子写真」を第三波フェミニズムの文脈で捉え直し、価値や意味をフリップする。これまたヒップホップ的であり「ガーリーフォト」として、女性の手の中に取り戻していく過程がとにかく興味深かった。特にヌードがムーブメントの要素に含まれていたことで、如実に性的搾取の側面があったわけだが、セルフポートレートだったことも踏まえた男女における性役割の転倒を狙っていたという主張は写真論としても興味深かった。

 当時に比べると現在は批評が勢いを失い、民意としてのSNSがその代わりを担っていると言えるだろう。SNSはフローする情報であり、スタックしにくいので、その時代のムードを振り返って分析することが困難である。本著では、書籍で残っているからこそ検証し直すことが可能になっており、ネット上の情報ではない別媒体で残る情報の重要性が明らかになっていたことも本論ではないが書き添えておく。他の本も早く読んでみたい。

2025年1月18日土曜日

遊びと利他

遊びと利他/北村匡平

 「公園と遊具から考える」という帯に惹かれて読んだ。3歳の子どもを連れて、ほぼ毎週公園に行く中で、自分が遊んでいた頃の公園と明らかにムードが違うことに違和感を抱いていたからだ。本著では、日本の今の公園、遊具がどういう背景で作られ、運用されているか、丁寧に解説されており興味深かった。さらに広げて「遊ぶ」という概念を分析しつつ、現在の社会における利他のあり方までリーチする一冊だった。

 前半は、利他と公園を広く考察、中盤では幼稚園、公園のフィールドワークの取材報告、後半は現代の利他論という構成となっている。効率や絶対的な安全、正しさを追い求める風潮が進む中で、それが公園に表出しているという見立てからして興味深い。実際、公園に行くと注意書きの量が本当に多い。「ボール遊び禁止」はわかるが、「マフラーを巻きながら遊ばない」と遊具に書いてあったり、対象年齢を制限する遊具や、遊び方が書いてあるケースもある。そんなルールでがんじがらめになってしまった公園では、環境要因で子どもの遊びが排他的、利己的になっている状況を著者は危惧していた。利他的行動について考える際に、対人関係が中心になりがちだが、著者はそれだけではなく空間や環境がもたらす影響も考慮している点が特徴的だ。たとえば、仕切りのあるベンチを筆頭に、モノによる管理空間がそこかしこに溢れていることを例に挙げつつ、日常に溶け込むルールによる排他性は子どもに規律を内面化させる可能性があるとのことだった。

 本著の白眉はフィールドワークに基づいた取材と、それを参照した「遊び」に対する科学的な眼差しである。子どもの遊びがこれだけ体系立てて、過去から連綿と科学的に研究されていることに心底驚いた。そして、各研究が示している内容は、自分が子どもと遊んだり、他の子どもが遊んでいる様を見ている際に何となく考えていたことが、ことごとく言語化されており、何度も頷いて読んでいた。紹介されている2つの幼稚園は正直現実味がなかったが、羽根木プレーパークは似たような施設が近所にあるため、その場所の解像度が本著を読んだおかげで格段に上がった。実際に、子どもをそこへ連れていくと、その不安定さに如実に魅了されており、普段抑制されている子どもの遊びに対する欲望を具体的に感じたのであった。

 紹介されている実際の幼稚園や公園は素晴らしい環境なので、自分が子どもに対して提供できている環境と比べてしまうかもしれない。しかし、紹介されていたような幼稚園や公園に行けないからといって諦める必要はなく、子どもの遊びに必要な要素を意識しながら、普段どおり遊ぶだけでもかなり変わるだろう。とにかく子どもの自由を制限しない必要性が繰り返し唱えられていて、今だと「危ないから、他人に迷惑をかけるから」という理由で子どもの遊びに親がブレーキをかけてしまうケースが多い。しかし、物事の限界を自分の肌で理解しない限り、いつまでも成長しないという話は至極まっとうだし、子ども同士が諍うことに対してアレルギー反応を持たずに、じっくりと大人側が待つ必要がある、それが子どもの民主主義を育てるという主張もまったくもってその通りだ。ただ、今は大人が大きくコミットするのが多数派なので、そこで放置していると「なんで注意しないの?」という懐疑的な視線にさらされるリスクもある。だからこそ、社会全体が余白を持つ必要があると感じた。それが利他的関係性に繋がっていくだろうと思いつつも、今の社会に蔓延る息苦しさが霧のように晴れる日は来るのだろうか…

 いろんな見立てが出てくるのだが、その中で一番個人的にしっくりきたのは人類学者であるティム・インゴルドによる「迷路」と「迷宮」の対比だ。

「迷路」はゴールへたどり着くという意図があり、なるべく最短ルートで目的地を目指す。ゴールへのルートから外れてしまったり、立ち止まったり、引き返したりすると、「失敗」になってしまう。それに対して「迷宮」は、途中で足を止め、脇道にそれ、道草をしたり寄り道をしたりしながら、周囲に注意を払い、感性を研ぎ澄ませて、驚きや発見のプロセスを楽しむ。

これが今の遊びの状況を端的に示している。つまり、迷宮ではなく迷路化している。(著者は「公園の遊園地化」とも言っていた。)公園で遊ぶにしても、迷路的な遊具をルールどおり遊ぶのではなく、一工夫して遊んだり、迷宮的な原っぱや木立で積極的に遊び、余白を楽しむことを意識していきたい。

2025年1月16日木曜日

にがにが日記

にがにが日記/岸政彦

 ウェブ連載時に読んでいて、いつのまにかフェードアウトしてしまったが、書籍化されたことを知って読んだ。社会学者ではなく、人間・岸政彦の脳内をひたすらのぞいているような日記でオモシロかった。

 2017〜2022年まで各年の特定の期間に書かれた日記と、飼い猫である「おはぎ」との最後の日々を綴った日記の二部構成となっている。日記はZINEを筆頭としてブームが続いているが、著者の日記のダダ漏れっぷりは他の追随を許さない。脳内で思いついたことをキーボードに叩きつけている様が容易に想像できる。普通なら、この叩きつけたネタ帳を推敲していくのだろうが、あえてそのままにすることで、思考のフローを読者にトレースさせるような構成がユニークだった。一筆書きであり、日々のこと、考えている断片が矢継ぎ早に飛び込んできた。読み進めるにつれて、その離散っぷりは加速していくのだが、反比例するようにそのグルーヴがクセになって魅了された。

 「適当に」書いているので、打ち間違いを含め校閲で問題になりそうな部分を、あえて日記の中で校閲の人に語りかけて、間違いをそのまま残させる、そのメタ的な日記スタイルは日記本というフォーマットの「読み手がいないように書くが実際はいる」という不在の中の存在を明らかにしており興味深かった。そんな適当な中でも、50代に突入した著者による人生論よろしく、人生の真理に迫るような論考がふっと書かれているから油断ならない。子どもがいる分だけ可変的な要素があるものの、こと自分だけにフォーカスしてみると人生はルーティン化して硬直しがちだ。本著ではライフイベントと自身を対比しながら、にがくなりがちな人生をどのようにご機嫌に過ごしていくのか、考えている様子が参考になった。また幾多の書籍で既に自明ではあるが、生活と地続きの中で放たれる言葉にシビれた。

 後半の「おはぎ」という飼い猫の最後を看取る日記はハードだった。人間の介護と遜色ない、予断を許さない状況に息が詰まるし、著者およびパートナーのおさいさんの「おはぎ」に対する思いが溢れんばかりに伝わってきた。動物を飼ったことも看取ったこともないが、それでも胸に迫るものが相当あったので、同様の経験をしたことがある人は読むのに覚悟がいるように思う。もしくは来たるべき未来への予習と捉えるか。「喪失」に対する受け止め方の話であり、パートナーであるおさいさんの言葉が喪失に伴う寂しさを際立てるのであった。

おさいが、好き好きって言ったらむこうもごろごろ言いながら好き好きって言ってくれる、そんな相手がもうおらん、って言ってた。同感だ。好きな相手が世界から消えてしまっただけでなく、自分のことを好きだと言ってくれる、態度で示してくれる相手が世界から消えてしまった。

 2024年の今読むと、日記に何度も登場している立岩氏、打越氏の両名がこの世にいない切なさが胸に去来する。私たち読者は彼らの残した文を読み、語らうことで弔うしかないと改めて感じたのであった。ということで積読している『ヤンキーと地元』を読む。

2025年1月15日水曜日

2024/12 IN MY LIFE Mixtape


 もう誰も2024年の音楽の話をしていないと思うけど、無事に1年間完走したので記録として書いておく。ここ数ヶ月はもうSoulectionのおかげで、知らない新譜との遭遇率は上がるし、そのクオリティは死ぬほど高いので、聞く音楽に困らない状況だった。そして、12月も継続といった感じだった。やはりクリスマスムードに引っ張られて、バラードとか聞きたくなるのは音楽特有だと思う。(クリスマスにクリスマス題材の映画や本を見たり、読むより圧倒的にハードルが低いからだろうけど)

 ミクステスタイルをとったことで、ここ数年のひたすら新譜だけを追い続けるだけの主体性のない音楽リスニング体験から少しは逸脱できた気がする。毎月曲順考えて、ジャケ用意してという作業も好きだった。そして、一番大きかったのは車が運転できるようになったこと。車で自分のプレイリストを聞きながら街を流すのは、心がリラックスする効果が如実にあった。あと聴きたい音楽に悩んだときに、とりあえずプレイリスト選んでシャッフルできるのもいい。

 2024年のラップアップはこんな感じ。プリンスの本を読んだり、ISSUGIのライブ行ったり、そういった繰り返し聞くための動機があってこそ、何度も同じものを聞くことがデータからわかる。21 savage は1月リリースで一番好きだったから、結果的に一番聞いたのだろう。ストリーミングサービスの年末のラップアップは、ファクトフルネスなアプローチ、つまり客観的な再生データであり、そこに個人の思いは載っていないことは意識しておきたいところだ。SNSで「特定のアーティストの再生回数上位何%かに入っている」というアーティストに対するロイヤリティの示し方は未来が来ていると感じた。


 2025年は月単位でまとめるのは止めて、一つのプレイリストに貯めていくスタイルかな。ちなみに12月のジャケットは子の手作りアドベントカレンダー。これでも毎日シール貼ることを楽しみにしていた健気さに胸が洗われた。


2025年1月10日金曜日

エドウィン・マルハウス

エドウィン・マルハウス/スティーヴン・ミルハウザー

 「2025年は海外文学を積極的に読む」というなんとなくの目標のもと、印象的な表紙でずっと気になっていた本作を読んだ。年末年始にふさわしいボリュームとクレイジーな内容にぶっ飛ばされた。架空の伝記から浮かび上がってくる、子どもの頃のときに甘く、ときに薄暗い思い出が、走馬灯のように頭を駆け巡る特殊な読書体験だった。

 タイトルにあるエドウィン、そしてジェフリーという小さな男の子二人が主人公の物語で、ジェフリーが書いたエドウィンの伝記という設定。エドウィンは11歳にして亡くなってしまうのだが、そこに至るまでの過程を、伝記と称して事細かに描写している。物語を描く上で、どれだけの土台を用意して展開していくか、作家によってその塩梅は異なる中、本著はとんでもないレベルの描き込みの質と量を誇る。0歳〜11歳までと時間が短いとはいえ、一事が万事、冗長に語り倒している。したがって、物語が展開する速度は遅く、読んでも読んでも進まないページに何度か心が折れそうになった。しかし、過剰な愛情が注ぎ込まれた箱庭を愛でる、楽しむように読んでいると、自分の懐かしい気持ちが刺激されて、自分のパーソナルな記憶とオーバーラップして読めた。

 子ども時代特有の人間関係、そのリアリティの高さも特筆すべき点だ。特にエドウィンの初恋、不良との邂逅の二つは最大の読みどころだ。子どもが人間関係を通じて社会を知り、己の認識が拡張していく様をこれだけ瑞々しく描ける著者の想像力よ。小説は一人間の妄想といえば身も蓋も無いが、これだけ痛感させられる小説もなかなかない。伝記なので、エドウィンの感情そのものが直接描かれるわけではなく、他者から見たエドウィンの様子が、その内面に深く入り込むように、細かく描写されている点がユニークだった。しかも、わずか11年間を幼年期、壮年期、晩年期とチャプター分けしている。幼年期なんて、エドウィンが赤ちゃんの頃の話について、同じく赤ちゃんであるジェフリーが見ていて、成長した11歳のジェフリーが驚異的記憶力で当時を回想、描写しているという設定がクレイジー過ぎてオモシロい。

 訳者あとがきでも指摘されているとおり、ジェフリーの他人の人生に対する異常めいた眼差しが際立っている。特に終盤にかけて、伝記の著者として筆が乗ってくる様が、最悪で最高だった。前半は、記憶とクロノジーの違いに触れながら、彼自身が伝記作家としての矜持を述べる場面もあり、事実描写に徹している。しかし、後半にかけては表現したい自我が抑えられず、アクセルが加速していき、比喩表現などが大幅に増えて、冗長な語り口へと変化していく。最後、エドウィンが目の前で亡くなったにも関わらず、大きく振りかぶった語り口は、伝記作家というより小説家である。つまり、小説になりそうな題材が目の前にぶら下がっていて、それに飛びついたように映る。一億総ツッコミ社会の今、他人の人生で自己承認を満たす様は自分を含めて、そこかしこで散見されることである。それがいかにうす気味悪いか、本著を読み終えた頃に気付かされるのであった。ただ「アーティストはアートを生み出し、伝記作家はアーティストそのものを生み出す」というジェフリーの言葉はカウンターとしては機能していた。トートロジーではあるが、優れたものを「いかに優れているか?」アーティスト以外の誰かがそれを表現するからこそ後世に残っていくことは間違いない。

 エドウィンが残した傑作に対して、ジェフリーが必要以上に意味を見出そうとする姿勢も今の考察ブームを先取りしているかのようだ。作成者が何も意図していない物語に意味や解釈を与えていくのは批評であるが、作者の意図を直接当てたい考察の虚しさ、本人に意味を直接聞いて何も返ってこないから失望するというのは勝手が過ぎる話だ。

 伝記作家が主人公で、さらに伝記を描く対象も想像上の幼い小説家というメタ展開。これを思いついて、事細かに描き倒す著者の作家としての胆力は並大抵のものではない。読んでいるあいだ、何を読まされているのか、頭がクラクラしたが、読書だからこその味わい深さがあった。

2025年1月5日日曜日

子どものものさし

子どものものさし/松田道雄

  『育児の百科』という子育てバイブルの著者によるエッセイ集。底本が別にあり、平凡社が編み直したものらしい。1960年代に書かれたとは思えないリベラルな視点で2025年の今読んでも参考になる点が十分あった。

 ざっくり分けると、前半は育児と教育、後半は医療、それぞれに対する著者の所感が書かれている。戦前、戦後を経験した小児科医である著者の意見の数々は貴重なものだ。講義録はかなり読みやすいのだが、著者自身の文章は割と硬いので、「道徳論」のような抽象度の高い議論は若干読みにくさを感じた。ただ、主張それ自体がどれも興味深いので、硬い割に楽に読み進めることができた。

 育児をしている身からすると、やはり前半パートが特に興味深かった。保育園という世界をここ2年ほど見ている中で、これだけ大変かつ尊い仕事があるのか、と毎日通いながら感じている。その感触について、なかなか言語化できていなかったのだが、著者がことごとく代弁してくれていた。保育園は幼稚園や小学校のようにわかりやすい教育の機会はなく「預けているだけ」といった先入観を入園前は持っていた。しかし、実際に預けるようになると、「教育」が意味するところは、単なる「お勉強」ではないことを痛感した。以下のラインはまさにそれを象徴している。

保育は保管ではありません。 それは、保育は教育だからであります。教育は人間と人間とのつながりの中でしかありえないことが忘れられているのは現代の悲劇であります。 教育というのは、自分たちの時代の文化をつぎの時代にゆずりわたすことです。

 大人の都合で、その場にある子どもの思いを汲み取り切れないとき、怒りの感情に支配されてしまう。しかし、しばらくすると、なぜ少し譲歩できなかったのかと悔いる気持ちも湧いてくる。最近の育児では、この感情の起伏の繰り返しなのだが、タイトルにもなっている以下のラインは常に意識しておきたいことであった。

子どもにたいして、おとなのものさしではかったものだけをあてがって、子ども自身にものさしをつかう機会をあたえないのが、現在の教育だ。

 上記のとおり、著者は子供各人の個性を尊重する必要性を繰り返し主張していた。しかし、日本の教育は「右へ倣え」がどうしても前に出てくる。今よりも協調性が強制されていた時代に「書き順に意味なんてない」「左利きを矯正する意味なんてない」など、アグレッシブな意見が多い。このように、なんとなく従っている教育上の暗黙の了解に対して、積極的に自分の意見をぶつけていく点が興味深かった。

 全体にリベラルかつ理想を多く語っている点から著者の熱い思いを感じる。当時と今では未来に対する期待値が異なるとはいえ、教育、育児、医療についてあるべき姿を力強く唱える姿勢にエンパワメントされた。また、医者という職業柄ゆえの死生観について、ここまで丁寧に言語化できることに脱帽したのであった。論理と情緒が相反することなく、一体となっている文章の数々は本当にかっこよく、これぞ古びないクラシック。

自分は死ぬ。しかし、自分の分身であるものは、明日もまた今日のように生きつづけるだろう。自分のからだの一部は、この世にのこって、太陽の光をあびるのだ。その連続の幻想で、断絶の事実をおおうのだ。