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小名浜ピープルズ/小松理虔 |
坂内拓氏による美しい装画に惹かれて読んでみた。東日本大震災から14年が経過し、時の流れの早さを実感する一方で、福島県ではまだまだ「災後」という現実が存在している。そして、日本に住んでいるかぎりは常に「災前」とも言える状況にあり、その「災間」に生きる我々がどのように災害と向き合って生きていくのか、たくさんの視座に溢れていた。
タイトルどおり、著者のふるさとであり、今も住んでいる福島県小名浜を中心に、さまざまな人のエピソードおよび著者の思索で構成されたエッセイ集。冒頭の「はじめに」でまず心を掴まれた。それは著者の造語であり、本著のメインテーマでもある「共事者」という言葉に出会ったからだ。
中途半端であることそれ自体に意味があるはずだし、当事者でも専門家でもないからこそ果たせる役割だってあるんじゃないか。そう考えられるようになって、ぼくは「わたしの震災」を語っていいんだ、そうやって自分の立場から語っていかないと震災や原発事故の影響だってわからないじゃないかと思うようになった。そのプロセスで「共事者」なんて言葉が自分のなかから生まれた。共事者とは中途半端な人たちのことだ。自分自身の中途半端さに意味を見出したくて、つまり自分をなんとか勇気づけたくて出てきた言葉だった。
インターネット、SNSの台頭により、誰もが発信できるようになった時代、災害に限らずあらゆる場面で「当事者」性が求められる。外野のヤジは聞くに値しないこともあるが、「非当事者」だからこそ語れることがあるのではないか。それは自分がブログやポッドキャストで試みていることそのものだ。著者の「共事者」という言葉は、自分のアプローチに名前を与えてもらったように感じたのだった。
各章ごとに著者にゆかりのある「ピープルズ」が紹介されながら、その人のバックグラウンドや会話のやりとりを紹介しつつ、著者の思索が丁寧に描かれている。著名な人というわけではなく、福島に暮らし、自分なりにストラグルしている方々のリアルな姿は、エスノグラフィーのような魅力に溢れていた。自分が勝手に抱いていた被災後の実情や被災者像といったものを、読んでいる間にことごとく塗り替えられた。これこそが最大の魅力だ。押し付けの「復興」がどうしてワークしないのか、本著はその答えにもなっていると言える。
印象に残ったエピソードを挙げればキリがない。例えば、原発処理水の放出をめぐる漁業の話では、補償があれば安心なのかと思いきや、その補償が結果的に下駄を履かせてもらうような形になり、純粋な商売として競争ができない。商品の魅力そのものを伝えたいという思いが、補償によって逆に歪められてしまうもどかしさにハッとさせられた。
また、旅館の一角に設けられた「考証館」の話も興味深かった。旅館の一角に設けられた考証館では、津波で亡くなった子どもの遺品が展示されており、触れることまで許されている。その場所と国が用意した伝承館を対比しつつ、原発事故を経験した人たちによる新たなまちづくりに関する議論は、現場ならではのものだ。そして、遺族の方の今なお続く捜索活動へと繋がっていく流れは、災後は終わらないことを痛感させられた。
さらに、原発事故後、立ち入りが禁じられた双葉高校に当時の高校生と共に訪問するシーンは本著のハイライトと言えるだろう。被災したことの辛い現実よりも、母校を訪問したときに誰でもが抱くシンプルに懐かしい気持ちが上回る。若い人たちのそんな率直な感情の動きに驚いた。
終盤、著者が子どもと原発伝承館を訪ねる場面がある。そこで重ねられる何気ないやりとりの中で、子どもが発する真理と思えてしまう言葉の数々。「怒り」ではなく「悲しい」という感情が、被害者と加害者の境界線が曖昧にさせ、安易な二項対立ではないと著者が気づいていく。そして原発の無責任性に対して、子どもが発する「伝承」することへの意思表示。いくらビッグバジェットで豪華な施設を用意しても、最終的には人間の意思が重要なのだという対比にグッときた。
時間が経つほど、過去の災害に関する情報は届きにくくなる。だからこそ、風化しない媒体としての本に託される意味は大きい。本著は単なる当事者語りを超え、非当事者の心の持ち様にもフォーカスしている。読むことで、自分自身が「共事者」として何ができるのか考えさせられる一冊だった。