2025年4月3日木曜日

これはわたしの物語 橙書店の本棚から

これはわたしの物語 橙書店の本棚から/田尻久子

 書評のZINEを自分で作ったわけだが、作るまで書評集をまともに読んだことがなかった。そんな中で、友人からおすすめしてもらったので読んだ。本屋を経営し、文芸誌を自身で発行する著者による書評集で、読みたくなる本にたくさん出会えて良かった。

 二部構成になっており、第一部は読書全般にまつわること、第二部は書評集となっている。第一部では本、読書にまつわる考えが書かれており興味深かった。斜陽産業であることが取り沙汰されてはや幾年という感じの本屋および出版ビジネスだが、インターネットの情報がフロー型かつその信頼性が大きく揺らぐ中で、本が果たす役割が大きくなる気もしている。著者のように本に対して、真摯に向き合っている姿勢を見ると「街の本屋」の存在の大きさを噛み締めるのであった。

 メインは第二部の書評である。小説、エッセイなどジャンルを問わず掲載されていた。前述のとおり、自分で作っておいてアレだが、書評集はあまり読んだことがない。わざわざ書評集で本を探しに行かずとも、読みたい本が常にスタックしている状況が続いているからだ。しかし、本著を読んで気付いたのは、本は世の中に膨大に存在し、自分の情報収集範囲からこぼれてしまう、オモシロそうな本が山ほどあるということだった。AIを含めてレコメンド精度はこれからも高まっていくだろうが、セレンディピティをもたらす書評集の可能性を改めて感じた。「0→1で、ものを生み出す人が一番エラい」という風潮は根強く存在するが、膨大に存在するものをキュレートする意味やオモシロさ、またその作品に対する解釈を深めることの豊かさを味わうことができた。

 紹介されている本の中には、読んだことのある本もあったのだが、自分で書いた感想と著者の書評を見比べることが楽しかった。当たり前だが、本はコンテンツとして長いものなので、その本の中で興味深い(あるいはつまらない)と感じる箇所は千差万別である。その違いを見ることで、本が多角的な存在として浮かび上がってくる。書評集を読むことは、今流行りの読書会を一人で行うような側面もあることに気づいた。次は『橙書店にて』を読みたい。

2025年4月1日火曜日

ボブ・グリーンの父親日記

ボブ・グリーンの父親日記/ボブ・グリーン、西野薫

 パパは神様じゃないのあとがきで本著が取り上げられていたので読んだ。1980年代のアメリカでにおける育児の様子が伝わってきて興味深かった。名コラムニストということもあり、着眼点と文章がいずれもピカイチで、男性による育児エッセイとしてはベスト of ベスト級だった。

 序文で本著を執筆するに至った理由を説明してくれており、以下の課題認識は、約三十年経った今でも変わらないと言えるだろう。育児本は世の中に溢れているが、育児する当事者の有り様や心境変化を描いたものは少ない。自分が探していたものが、1980年代のアメリカの本であるということは意外だった。

今まで二人で暮らしていた夫婦が急に三人家族になった時、何が起こるのかを、当事者の気持ちに焦点を合わせてとりあげた本は、どこにも見当たらなかった。

 著者は新聞のコラムニストとして名を馳せた書き手らしい。脂の乗ったキャリアの中で、子どもが誕生し、彼がいかに育児と向き合ってきたか、誕生から一歳の誕生日まで365日分の日記として描かれている。80年代の作品なので、アメリカでも妻が仕事を辞めて育児に専念している。日本であれば、女性が育児に全コミットすることが当然だったかもしれないが、当時のアメリカは過渡期のようだ。妻が自分一人で育児する辛さをぶちまけるシーンもあるし、著者自身が主体的に育児に関わろうとする意識が日記のそこかしこに表れている。仕事が忙しい中でも、どうにかして子どもと過ごす時間を作り、そこで目撃した子どもの挙動と自分の感情の機微を逃すまいとする姿勢にジャーナリスト魂を垣間見た。

 育児の主体は妻であり、著者は仕事のかたわらサポートする立場ゆえに状況がわかっていないことも多い。妻から幾多の注意を受けている様を、そのまま描いている点が真摯だ。日記というフォーマットゆえ、かっこつけることなく「記録」することに重きを置いているからだろう。男性らしさを感じた点は、これだけ献身的に子どもの生活を夫婦二人で支えているが、子どもが大人になった頃には、そのサポートについて一切覚えていないことを繰り返し心配している点だ。費用対効果的な思考であるが、こと育児においてはインプットに応じたアウトプットが出てこないケースが往々にしてあり、そこに育児の醍醐味と辛さの相反する要素が存在する。育児に携わる中で、著者が徐々にそのことに気づいていき、後半に出てくる以下のラインはグッときた。特に前者はトイトレ真っ最中の自分の心に深く刺さった。

赤ん坊は確実に自分のペースで進歩していく、ということだろう。それより速くもなく、遅くもない。僕たちはせかせるためにここにいるのではなく、耳を傾け、やっと言葉が出た時に認めてやるためにここにいるのだ。

今が始まりなのだ。他の人々に対する態度が形作られる始まりなのだ。白人の子と黒人の子の絵を見ても、アマンダは今は何とも思わないかもしれない。だがやがてこういう絵が意味をもってくるはずだ。そのうちいつか、何かがカチリと彼女の中に入りこむだろう。アマンダは他の人々に対し僕たちの世代が持っていないものを前提にして、人生をスタートするのだ。

 TV番組のジャーナリストとしても活動しており、いろんな場所へ出張するのだが、そこでも子どものことを考えてしまう話が繰り返し登場する。ステレオタイプとしての「娘を溺愛する父親」が苦手なのだが、著者の場合はその愛情表現がさっぱりしているからかヤダ味がない。それはおべんちゃらではなく、日々の生活における実践に基づいて、著者がその理由を紐解いているからなのかもしれない。

 私の子どもは三歳で、すでに乳幼児期を脱したところだが、本著を読んでいると、産まれてからの一年が走馬灯のように頭を駆け巡り、なんでもないシーンで急に涙が込み上げてきた。それはひとえに彼の筆力に他ならない。子どもの状況描写と著者の心情、思考のバランスが見事で、他人の子にも関わらず、子どもが赤ちゃんだった、かけがいのない時間を追体験することができるのだ。楽しいこと、悲しいことが渾然一体となった、生命力に満ち溢れているからこそのアップダウン。戻りたいような、戻りたくないような、そんなアンビバレントな気持ちになった。男性の育児参加が社会的に促されている今こそ復刊してほしい。