2025年12月28日日曜日

調査する人生

調査する人生/岸政彦


 社会学者である著者と、同じく社会学を専門とする研究者たちとの対談集ということで読んだ。データから傾向を見出し、圧縮、抽出することが価値とされがちな現代において、著者が「再現不能な、一回性の科学」と呼ぶ社会学の一側面の奥深さを知るには、まさにうってつけの一冊だった。

 本著は著者と六人の社会学者との対談集。著者が聞き手となり、各人のこれまでの調査や活動をたどりながら、その中で社会学のあり方そのものが語られている。社会学がここまで広く認知されるようになった背景には、間違いなく著者の功績がある。そのフロントランナーが、他の社会学者たちと向き合い、彼らの調査対象やスタンスを当人の言葉で引き出していくため、議論は自然と頭に入ってくる。すでに読んだことのある研究者については理解が深まり、未読の著作については今すぐ手に取りたくなる。特に石岡氏の『ローカルボクサーと貧困世界』は格闘技好きとして絶対に読みたい一冊だ。

 議論の中心となるのは、社会学における質的調査である。量的調査がデータから確からしさを抽出するアプローチだとすれば、それはデータ社会である現代の価値観と親和性が高い。一方で、数を稼げない質的調査をどのように行い、その結果をどう解釈するのか。本書では、沖縄の若者、部落差別、女性ホームレス、フィリピンのボクサー、在日韓国人など、対象は千差万別でありながら、それぞれが自分なりのスタイルで対象との距離を模索している様子が浮かび上がる。

 質的調査と一口にいっても、著者のようにワンショットサーベイで強い関係性を結ばないスタイルに対して、参与観察で特定の対象と距離を縮めながら、話を聞いていくスタイルでは考え方が異なる。その差分が繰り返し言語化されることで理解が深まっていく。なかでも、著者が沖縄で出会ったおじいさんのエピソードを通じて語られる「他者の合理性」は、人の一側面だけを見て安易に判断してしまいがちな現代において、強く考えさせられるテーマだった。

 タイトルにもある「人生」というのは、本著を貫く重要なテーマである。インタビューにおいて、研究に必要な情報だけを切り取るのではなく、より広い領域で話を聞くことで、想定外の枝葉から多層的で豊かな語りが立ち上がる。この感覚は、自分で『IN OUR LIFE』と名づけたポッドキャスト番組を運営していることもあり、実感を伴って理解できた。7年前にポッドキャストを始めたのは、SNSの窮屈さが最大の理由だったが、大事にしていたのは特定のテーマになるべく収束させず、話者同士の関心に委ねて会話を広げていくことだった。非圧縮でだらだらと話す中で話題は発散していくが、それこそが「人生」なのだと思っている。本著の言葉を借りれば、我々は「重層的な生」を営んでいるのだ。

 事実関係とディテールの違いについての議論も印象的だった。事実偏重の態度では、その場のやり取りだけがすべてだと誤解されがちだが、語りを文字に起こし、理論を重ねることで、出来事はより立体的に、伝わる形になる。理論だけでは手詰まりになり、現場だけでは一過性の話にとどまる。そのバランスを取ることで真理に近づこうとする営みこそが学問だ。

 打越氏、上間氏、朴氏の著作は読んでいたため、その前提を踏まえて読むことで各人の社会学に対するスタンスや対象との距離感を知ることができた。とくに沖縄を調査対象とする著者、打越氏、上間氏の議論では、沖縄特有の空気や風習が深く掘り下げられ、それぞれの著作の「ビハインド・ザ・ストーリー」を覗くような感覚があった。単なる読み物ではなく、学問なのだという当たり前の事実にここでも気付かされた。

 一方で朴氏とは他のメンバーとくらべて議論が平行線を辿る場面があり、興味深かった。「わかる」ということへの認識の違い、エモーショナルになることへの慎重な姿勢。感情に流されてしまいがちな自分にとって、ここまで整然とした態度は簡単に真似できるものではないと感じた。本著を読むと『ヘルシンキ 生活の練習』シリーズで著者が淡々とした描写に徹している理由もよくわかった。

 普遍的にいえば「人に話を聞くこと」が本著のテーマであり、その行為について対話するという構成はメタ的と言える。相手の話を受けて、自分の見解を足して返していくスタイルで、これだけ議論をスイングさせられるのは著者の力量に他ならない。十年ほど前、サイン会でほんの一瞬言葉を交わしたことがある。短い時間にもかかわらず、緊張するこちらの話を引き出し、そこから会話を膨らませてくれた。そんな記憶が、本書を読みながら蘇ったのであった。

2025年12月26日金曜日

ブロッコリー・レボリューション

ブロッコリー・レボリューション/岡田利規

 Palmbooksの作品で著者のことを知り、他の小説も読んでみようと文庫で手に入りやすい本著を読んだ。既存の小説の形式を脱構築していくようなスタイルが印象的だった。

 著者はもともと劇作家であり、小説も書いている。本著はタイトル作を含む短編、中編を交えた作品集となっている。どの作品もテーマ自体は他愛のないことであり、物語的な大きな起伏は用意されていないものの、語り口のユニークさにぐいぐい引き込まれた。

 オープニングを飾る「楽観的な方のケース」は最初こそ女性の一人称で進んでいくのだが、急にカメラが彼女から離れる瞬間が訪れる。しかし、語り口は女性のままで、彼女の視点から見たパン屋の様子、彼氏の視点が語られていく。ぼーっと読んでいると見落としそうなほどシームレスに話が進んでいくのだが、ここで明らかになるのは、著者が「小説の語り手」についてかなり自覚的であるということだ。カップルが同棲を始める話にも関わらず、一般的な会話体が一切なく、それぞれの視点から見た彼、彼女に対する内面の感情が細かく描かれている。それは小説だからこそ書けることであり「演劇」という会話の塊のようなフォーマットでは描けない領域を小説で模索している様が伝わってきた。

 ヒップホップ好きとしては「ショッピングモールで過ごせなかった日」を興味深く読んだ。一つのモチーフとしてラップを取り上げているのだが、「ストリート」と「ショッピングモール」を対比させつつ、どちらも同じくらいにお飾りなものでしかなく、存在自体に必然性がないことを描いている。Tohjiが提示したMall boyzの世界観を小説にしたら、こうなるかもしれないと思わされた。ただそれにしては「ストリート」に対する視点が冷めすぎており、それに呼応させるようにストリート側をダサすぎるラップ描写でラベリングしている点には抵抗があった。

 「黄金期」は終わらない都市開発を舞台にした、頭のいかれた人間の話で読んでいてワクワクした。作中では横浜だが、最近渋谷に行くたびに感じる「一体何がしたいのか?」という気持ちが端的に表現されていて膝を打った。

利便性を高めたい一心でアイデアが労力が資金が、よかれと思って投入された結果が裏目に出たということなのか、無視できない副作用が出てしまったということなのか、ずいぶんとやさぐれた場所、剝き出しになる寸前の殺気がしれっと色濃く漂う場所へと、ここをすっかり変貌させた。

そして、渋谷駅を通るたびに感じるのは、殺気だったのかと気づいた。

各々の目的の優先を妨害してくる他の人間どもの意志を斥け合う。その意志の存在を互いにそもそも認知しないという仕方による、意志の排斥合戦によって、絶えずそこかしこで小さな火花が生じ、こうしてこの場は常時一定以上の濃度の殺気を保つ。

 三島由紀夫賞を受賞した表題作は、ここまで紹介した語り口のユニークさと暴力性が「文学」という形で結晶化した作品となっていた。話の筋としては、妻が家を出ていってしまい、タイでバカンスを一人過ごしているというもの。このとき、妻の一人称でバカンスの様子が語られるのではなく、残された夫が、妻のバカンスでの様子を二人称で語っている。残された側が「こんなバカンスを過ごしているに違いない」という妄想の羅列ともいえるのだが、小説の本質、つまり、小説とは誰かの頭の中で行われる想像の一種なのだということを、人称によって改めて明示している。それは冒頭を飾り、文中で執拗に繰り返される「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」というセリフに象徴されているのだった。

 巻末に多和田葉子との対談が収録されており、そこでも人称の話題になっていた。著者がタイで印象に残った風景や出来事を小説に落とし込むにあたり、一人称だと自分との距離が近すぎるから、このスタイルになったと語っており納得した。二人とも王道というより革新派ゆえのメタ視点の数々が興味深い。特に二人称の「あなた」から「彼方」に派生させて、近しさと距離の話に変換していく多和田葉子はラッパーだなと改めて感じた。

 タイでのバカンス描写は村上春樹を彷彿とさせる洒落たものが多い。それは食事、音楽、プールというテーマに引っ張られているからそう見えるのだろう。なかでも文中で紹介されるタイのインディーポップバンドが甘酸っぱいサウンドでピッタリだった。一方で、このバカンスの妄想を繰り広げてる語り手の男が暴力的というのが新鮮だ。この結果、バカンスシーンが冗長になりすぎず、物語がキュッと締まっていた。

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』も読みたいが絶版してるようで、Kindleでリリースして欲しい。

2025年12月25日木曜日

水曜生まれの子

水曜生まれの子/イーユン・リー

 近年、イーユン・リーの翻訳版がコンスタントにリリースされている。小説を手にする機会が減った今も、彼女だけは例外として追い続けている。久しぶりの短編集は、短いからこその切れ味が冴え渡り、一編読み終えるたびに思わず遠い目をしてしまう、そんな余韻の深い一冊であった。

 本著は2009〜2023年の14年のあいだに発表された短編をまとめた作品である。その歳月を感じさせないほど、まとまりのある短編集という印象だ。それは壮年もしくは中年の女性が主人公であり、子どもの不在を中心に思い悩む姿が繰り返し描かれるからだ。最近の長編においては、自身の出自と距離のある登場人物の小説に挑戦しているが、今回は「中国からの移民女性」という主人公が多く、著者の気配が色濃く漂っていた。

 訳者あとがきにもある通り、著者の人物描写は最小限に抑えられているゆえに切れ味鋭いフレーズが際立つ。長編でも同様なのだが、短編で話の密度が大きくなることに比例するかのようにフレーズの威力も増しており、これほど付箋だらけになる小説もそうそうない。エンパワメントされる言葉もあれば、心の隙間に入り込んでくる言葉もある。

科学では妥当と考えた仮説だけを追究する。人生は、それではすまない。

人生は、死への控えの間だ。

家というのはどれほど照明がついていても、どれも同じであることを思い出させる。すべての家が、無関心な暗闇の中にある。

あたしが人間のどこが嫌いか知ってる?"これはあなたの学びになる"ってすぐ言いたがるところ。だって、学んで何の意味があるの。人生で何かに失敗しても追試は受けられないんだよ

 『理由のない場所』から続く、自死によって子を失った母親の物語がやはり重く響く。先日読んだ『Θの散歩』でも書かれていたが、私自身、親となって以来、我が子か否かに関わらず、幼い命や若い命が失われることへの恐怖は増すばかりだ。そんな中で取り残された親側の心情の繊細な描写の数々は、著者の実体験と筆力がかけ合わさった結果、唯一無二のなんともいえない味わいがある。書くことでしか消化も昇華もできない感情の澱があるのだろう。子育てめぐる以下のアナロジーは、彼女の重たい心境を端的に表している。

子育てとは裁きだ。運のいい者は慎重な、あるいはやみくもな楽観主義のまま、自らの正しさを主張し続けている。

子育てはギャンブルなので、はったりをきかすしか手がないのだ。

 なかでも「幸せだった頃、私たちには別の名前があった」は子どもを失って直後の短編ということもあり、感情の生々しさが他の作品よりも強烈だ。主人公はエクセルシートに記憶にある限り、自身周辺の死者を書き出して、それぞれの死を回想しながら、我が子の死を相対化しようと試みる。アプローチ自体はドライなんだけども、奥にあるウェットな感情が夫との会話のラリーで表現されていて胸が詰まった。積読していた本著をこのタイミングで読んだのはエッセイがリリースされていることを本屋で知ったから。早々にそちらも読みたい。

2025年12月23日火曜日

NAGASAKI BOOKSHELF SNAP 1&2

NAGASAKI BOOKSHELF SNAP

NAGASAKI BOOKSHELF SNAP 2

  ZINEの営業を行う中で、全国にさまざまな独立系書店がある現状を知った。そんな中で知った長崎の出島(!)にあるBOOKSライデンさんが、お店の周年で発行している「本棚のZINE」が面白そうだったので読んだ。くしくもブルータスで本棚特集が組まれており「本棚」とは何かについて考えるタイミングで読めてよかった。

 お店のお客さんの自宅の本棚の写真(カラー)がコメント付きが掲載されているというシンプルな構成のZINE。見ず知らずの人の本棚の写真が、なぜこんなに雄弁なのか。改めて本棚の持つマジックに魅了された。本がランダムに並ぶことで生まれるコンテキストとしか言いようがない何か。きれいに整理されている気持ちよさもあるのだが、整理されていないからこそ、物体として存在しているからこその魅力が本にはあることを改めて実感した。

 本棚を他人に見せることに抵抗のある人がいることは承知しているが、本好きにとって他人の本棚ほど見ることが楽しいものはないかもしれない。流し見していて、ふと目に入ってくる本を読みたくなる。コメントでレコメンドされている本も千差万別で興味深い。また、読書スタイルも紹介されており、本好きとしては皆がどんなシチュエーションで読んでいるか気になるので、本好きにとってはとにかく嬉しい内容ばかりだ。

 なによりもお店に通っているお客さんであることが本棚から伝わってくる点に感動する。『庭の話』『ガザとは何か』など本屋さんがお店を通じて本を提案し、それをお客さんが受け取っている。このZINEに写真を提供する時点でそれなりに関係値があるとは思いつつ、お店とお客さんの本を通じた関係性が本棚から伝わることの尊さよ。だからこそ、これは本屋さんにしか作れないZINEであり、信頼関係が本によって可視化されている稀有な例だと言える。

 写真は世代別に並べられており、若い人が本を読んでいる/読んでないといった議論を横目に「読んでいる人は読んでいる」という事実が冒頭で宣言されているようで痛快だった。事件は会議室ではなく本棚で起こっている。そして、ページをめくるたびに世代が上がっていくのだが、本棚のムードも年月を感じさせるビンテージ性を帯びていくことに驚くのだった。それは写真の画質や撮り方の影響もあるだろうが、本の装丁が影響してるように映った。個人が購入している本だからこそ、古本屋とは別のビンテージ性、特定の年代が個人の本棚から漂ってくるのだ。多くの本が背表紙しか見えていないのに、そこさえも時代性を帯びていることに装丁の奥深さを感じた。有名な人の本棚を見ることもその人の思考の一端を感じられて興味深いが、それと同じくらい、どこかの誰かの本棚も面白いことを教えてくれるZINEだった。

2025年12月22日月曜日

Unofficial Fan Book of FKGB

 Unofficial Fan Book of FKGB

 前作がかなり興味深かったので、コンビニでプリントアウトして読んだ。すでに印刷可能な期間は終了してしまったが、今回もファンならではの視点がユニークで興味深かった。

 今回は、ICE BAHNの歴史と各メンバーの細かい略歴について紹介されている。特に2000年代あたりは、彼らがシーンに登場したタイミングなのだが、ネットで情報が取りづらい。それをキャッチアップするには最適の資料だった。前作から引き続き、著者の引用に関する意識の高さには頭が上がらない。インターネット普及以降、誰もがいつでも簡単に追体験できる環境において、まるで自分が見た、聞いたかのように語る人間が山ほどいる中で、どこから情報をもってきたか、きっちりクレジットされており、さながら論文のようである。特に2003年のUMBのくだりの真摯さには自戒の念をこめて胸に刻みたい。

 このZINEのハイライトは「姓はICE BAHN 名はFORK」に関する考察である。FORKのフリースタイルダンジョン登場時に一躍話題になったフレーズであり、最近ではWorldwide Skippa「メタナイト」でサンプリングされたこともあり、再度脚光を浴びている。ラッパーの一つのリリックにフォーカスして、ここまで論旨を展開している文章はそうそうお目にかかれない。特に最近は楽曲のリリースが大量にあり、一ラッパーの、一リリックに注目しづらい環境において、ファンが長年考えてきたことは、自分も含めた在野の似非日本語ラップ評論家の上の上をいく愛情に溢れているのであった。フレーズの歴史と成り立ち、それが持つ本質的な意味にまでリーチしているので、こういうリリックの掘り下げ方は勉強になった。

 著者が実際に足を運んだライブのセットリストも興味深い。今のICE BAHNがどんな曲をライブで披露しているのか、それは現場にいた人しか基本的には知り得ない情報であり貴重だ。しかも、その日のシチュエーションによって色んなことが起こっている(METERSやDa-Dee-Mixとのセッション、HIKIGANE SOUNDとの邂逅など)そんなライブレポを読むと「現役でライブをやっているのだなー」と、ICE BAHNのヒップホップ愛を感じるのだった。

 最後にはChat GPTで作成したFORKファン向けのネイルや部屋のデコレーション案が掲載されており、ギャグなのか、マジなのかわからないものの、熱い思いは伝わってきた。紹介が遅れてしまって、著者のnoteは無料で読めるので、興味ある方はそちらも要チェック。

2025年12月18日木曜日

へべれけ人生③

へべれけ人生③

 文学フリマはほぼ目的買いだった中、数少ないセレンディピティ的に購入したZINE。実は著者の方とブースが隣で、こういう機会も文学フリマの出ることの面白さの一つだ。現在、①〜④までシリーズで刊行されているうちの3作目。郊外への転居&子どもの誕生により、外で飲む機会はかなり減っている中で、お酒を嗜むシチュエーションはもっぱら家なのでピッタリな一冊だった。

 雑誌のような作りで巻頭に特集が用意されており、他にもエッセイ、短歌、日記とすべてお酒と食事にまつわる内容となっている。前述のとおり、特集は家飲み。「家で何をつまみに飲むか?」飲みの場で友人と話したとしても、ざっくりした内容にしかならないし、覚えてもない。しかし、本著では詳しく書かれていて、それが興味深い。ゆで卵、焼きなすといったミニマリスト的つまみアプローチや、文章から垣間見える著者の背景も含めてグイグイ読めるし、グイグイ飲める。なかでも「セブンで豪遊」は著者がセブンイレブンで愛好するおつまみが書かれており参考になった。(ジェネリックあみじゃが、酔っ払った帰り道によく買う。)

 私は最近、ジャスミン焼酎『茉莉花』にハマっている。缶で飲んだときに美味しかった記憶がある中で近所のドラッグストアでボトルを発見。なんとなく買ってみたら、かなり調子がいい。ソーダ水で割ってもいいし、ジャスミン茶で割っても美味しい。歳を重ねる中で、重たいお酒でべろべろになるほど飲みたい気持ちもないので、自分で濃度調整できて、いい感じの着地を探すことができる万能選手である。

 缶チューハイは群雄割拠だが、最近はサントリーの「-196℃シリーズ」をよく飲む。パッケージが新しくなった水色のやつ。フルーツの味がかなり濃厚で、ジュース的感覚でサクッと飲めるのがよい。あとは『本搾り』のライム味。これは中原昌也の日記を読んだときに知って飲んで、あまりのおいしさに毎日飲んでいるときがあった。モヒート方向のライムのお酒として抜群の出来。近所のドラッグストアに常置されていることもあり、安定したスタメンだ。こんな自己開示を誘発するほど、家飲みの話って実は語りしろがあるのだな〜と読んで気付かされた。

 個人的には酒場の話はエッセイのテーマとしてピッタリだと思う。本著でも忘れられないシリーズとして二つのお店が取り上げられていて、どちらの話もおいしそうだった。タコスが美味しい焼き鳥屋、黒田はいつか必ず行きたいし、吉本ばなな「キッチン」から導き出されるカツ丼エッセイは、同じ本でも切り口次第で色んな読み方があることを教えてくれた。他のシリーズも含めてお酒好きな方にはおすすめのZINE。

2025年12月13日土曜日

とある都市生活者のいちにち

とある都市生活者のいちにち/植本一子

 日記ブームが続く中、そのフロントランナーである植本さんの久しぶりの日記。近作はエッセイ集が続いていたこともあり、原点回帰を感じさせる内容で興味深かった。

 もともとnoteに掲載されていた日記がベースであり、読むだけなら無料で読める。それでも一冊の本としてまとめられたことで、416ページ、約13万字という特大ボリュームとなっておりファンとしては嬉しい仕様だ。そんな重さを感じさせない軽やかで読みやすい文体は健在だ。出版用に書いた日記ではなく、ウェブで不特定多数に向けて書かれたことによる「コミュニケーションとしての文章」という性質が、この軽やかさの理由なのだろう。

 ウェブでは味わえない本が持つモノとしての魅力が素晴らしい。基本、車で移動しない都市生活者は荷物が少なければ少ないほどいいわけで、ポケットや鞄に入れてさっと読める文庫サイズは理にかなっている。今回最も驚いたのはフォントだ。日付、数字、引用、アルファベットなどなど多様なフォントが入り乱れており、これだけ派手な紙面は新鮮だった。表紙のタイトルはその象徴であり、特にクネクネした文字が最高。自費出版ゆえの自由さが存分に発揮されている。装丁については、植本さんの作品に頻出している高橋さんの解説に詳しい。(上記商品リンクの中で読めます。)

 そして、肝心の内容だが、正直に言えば、今回の最大のトピックは自分が登場していることだ。一介のファンボーイに過ぎない自分が、日記に名前が載る日が来るとは夢にも思わなかった。文学フリマに誘っていただいたこと、図々しくも「ZINEFESTに出ましょう」と自分から提案したこと、さらに自分のZINEのタイトルまで印字されているなんて…これは一生の宝物になった。

 日記ブームと比例するように、「書くことの暴力性」が語られる機会も増えた。実際、他者を書く際に求められる配慮は十年前とは比べ物にならないほど高まっている。だが、その暴力性は書かれる喜びと表裏一体でもある。書いた側が忘れていたような瞬間が丁寧に掬われ、記録される。その尊さを、自分自身が書かれたことであらためて実感した。

 この日記には約160人以上もの人物が登場し、都市で生き生きと暮らす人々の日常が植本さんの視点を通じて記録されている。前述した文体の軽やかさは、フットワークの軽さ、どんな人でも受けとめる懐の深さを体現していると言えるだろう。象徴的なのは自転車による移動である。縦横無尽に街を駆け、次々と人に会い、その都度日常が更新されていく姿はイメージする都市生活者そのものだった。

 また、印象的だったのは、植本さんがこれまでの著作で訴えていた「さびしさ」に自分を重ね合わせる読者たちの存在だ。しかし植本さんは安易には寄り添わない。その距離感にこそ、ほんとうの優しさが宿っているように思えた。

さびしく思う読者の人もいるのだろうか?確かにいるかもしれないけれど、どうだろう。だからといって変わらないわけにはいかない。変わったようで変わっていないところもある。そうじゃない?

 個人的に一番グッときたのは、ナルゲンのボトルの巡り合わせだった。ECD氏が使っていたボトルがなくなり、なんとなく覗いたガレージセールで再び同じようなボトルと遭遇する。日々の生活で、こういった運命的な瞬間はいくらでもあり、正直それは特段意味のない偶然でもあるわけだが、それが日記として記録されることで、夜空に輝く星から星座を紡ぎ出すように意味を見出すことができる。(日付がジャスト1ヶ月後…!)ここに日記の醍醐味が詰まっていた。

 自費出版の流れが2作品分、掲載されており、どのように制作、営業、販売しているかを知ることができる点もこれまでの日記にない特徴である。自ら本を作る人が増えた今、多くの作り手にとって貴重なリファレンスになるだろう。その手つきは極めて丁寧かつ自分を追い込むプロフェッショナルでもある。作家は締切に追われて書く人が多いイメージを抱きがちだが、植本さんの場合、締切を意識しつつも、それ以前に「書くこと」が大事で好きなんだろうなと伝わってくる。だからこそ、ここ二作のエッセイの完成度に納得できたし、それが実現している背景は、書かされているのではなく、書いている「発注なき書き手」だからなのかもしれない。さらに日記内でも言及されている通り、場当たり的にどんどんコネクトしていって、いつのまにか何かができあがり、そこに人が集まり、ものを売っていく。そんな巻き込み力にも圧倒された。

 私が作ったZINEについて、ありがたいことに植本さんからたくさんご意見をいただいた。そこでプロの洗礼を味わったことも書いておきたい。苦くもいい経験だったから。自分は内容さえ良ければ読んでもらえると思い込んでおり「どうすれば確実に読まれ、届くのか」という視点をまったく持っていなかったのだ。確かに売上だけ見れば、一度買ってもらえれば数字上はそれで終わりである。しかし、実際に読まれ、人の心を動かすことがさまざまな可能性を生み出す。本が連れて行ってくれる未来は、読まれて初めて開けるからだ。

 今回の日記を読むと、植本さんは、そうして多くの人に読まれた結果、そこから生まれる人間関係に支えられながら都市で暮らしている姿が克明に刻まれている。家族という閉じた枠組みではなくとも、互助のネットワークを自ら築くことで、家族観を拡張していく実践の記録でもある。限定特典のエッセイも、まさに既存の家族観を越境していく内容で、この日記集にふさわしいものと言えるだろう。今後は日記というよりエッセイにシフトしていくようなので、日記をまとまった形で読める機会は少なくなるかもしれない。それでも植本さんの日記だからこそ味わえる日記の面白さは間違いなくあるので、またいつか出して欲しい。

2025年12月11日木曜日

音信普通 ONSHIN-FUTSUU

音信普通 ONSHIN-FUTSUU/モトムラケンジ、早坂大輔

 文学フリマのBOOKNERDのブースで入手して読んだ。音楽が通底するテーマとしてありながら、さまざまなトピックを横断的に往復書簡で語っている点が興味深かった。

 モトムラ氏が京都のレコードショップ「RECORD SHOP GG」を経営されている方で、早坂氏は岩手のブックショップ「BOOKNERD」を経営している。本、レコードの販売を生業にする二人による往復書簡となっている。見開きページで、本文内で紹介されるアルバムのジャケットが左側に、文章が右側にあるという構成。このアルバムジャケットがそのままではなく、矢吹純によるスケッチとなっている。これが本当に至高…!行きつけのコーヒーショップのラベルも矢吹氏によるデザインで馴染み深いのだが、それも含め彼が得意とするのはブルースを感じる絵だ。しかし、今回は時代も国境も超えて、さまざまなアルバムのジャケットが描かれており、どれもこれも味わい深すぎて、ページをめくるのがとにかく楽しい。あんまりネタバレすると、読む楽しむが減るのでここでは詳細は書かないが、ONRA『Chinoiseries』は青春のアルバムであり、あのジャケが矢吹タッチで書かれていてブチ上がった。

 

 ベタからニッチなものまで、幅広く紹介されており、音楽ガイド本として最高。しかも、振りかぶって音楽を紹介するのではなく、何気ない会話の中の一つとして紹介されている点に、音楽は嗜好品でもなく生活の一部なのである、というメッセージを感じた。

 新譜チェッカーとしては、新譜は「新しい」というだけで聞くきっかけがあり、今年のリリースのアルバムだと一旦聞いてみる。しかし、旧譜は何かトリガーがないと、なかなか聞こうとするきっかけがない。そういった観点でいえば、本著はトリガーだらけで前述のONRAを含めて聞き返したいアルバムもあったし、新たに知ったアルバムもあった。一番強烈だったのは、ANDRÉ 3000のピアノスケッチ集。音楽になる前の芸術の塊みたいなアルバムだからぜひ聞いてほしい。

 二人のテーマは多岐にわたり、タイトル通り「普通」の話が展開される中でも、やはりクリエイティブ論や、モノを売ることに関する内容が興味深く映った。二人とも小売業だけではなく、レコードや本といった自身のプロダクトも手がけるからこそ、今の時代にモノを作って売ることに対する矜持がふんだんに語られており、私もZINEを細々と作って売っている身として刺激になった。特にこのラインにハッとした。

止むに止まれず、衝動としての音楽や文学をやっている人というより、みんなある程度オールマイティーに、経済のアルゴリズムに乗っかって音楽や文学をやっている。昔はただギターを鳴らしていればよかったのに、今ははじめからマネジメントとか、経理とか、オンラインストアに音源をアップするとか、そういうものを兼業することが当たり前になってしまったことが、結果的に自分たちのやっていることをつまらなくしているとしたら?

 今の状況は不要な中抜きがなくなったことで、歓迎すべき状況だと思っていたけれど、インディペンデントに誰でもなんでもできるようになった結果、そこでクリエティビティが削がれている可能性は思いもよらなかった。そして、アルゴリズムに動かされて何かを作っているだけ、という強烈な言葉は、これからの時代、うちなるパッションをどれだけ大切にできるかが鍵だと感じた。

そんなBOOKNERDさんにて弊ZINE、お取り扱いいただいております。合わせてチェックくださいませ。宣伝エンディングで大変恐縮ですが、どうぞよろしくお願いします。

ikuzine


2025年12月8日月曜日

Θの散歩

Θの散歩/ 富田ララフネ

 帯にある「本を読むことが子育てに与える影響について」という言葉にひかれて読んだ。まさに今の自分のすべてといっても過言ではないトピックなので、それはもう楽しく読み、このまま終わらないで欲しいと願うほどだった。本を読むことと、子どもを育てることが有機的に結びつき、それぞれが深い論考として展開される、唯一無二な小説だった。

 主人公は著者と同名で、妻Qと子どもΘの三人家族。主人公が一年間の育休を取得し、妻が働いているという状況の中で、主人公が0歳の子どもと東京を中心に街を徘徊しながら、子どもが寝る隙間の時間で本を読んでいる。それだけの小説なのだが、これが滅法オモシロい。

 古今東西の小説やエッセイをひたすら読み、その断片を思考の足場にしながら、自身の育児へとフィードバックしていく。エッセイは実体験に根ざしているからまだ理解できるとしても、小説の一節を切り取り、貼り付け、自らの解釈を上書きし、さらに自身の物語を構築していく様は、まさしくサンプリングであり、ヒップホップ的手法と言えるだろう。

 サンプリング元になる本のチョイスも2025年とは思えないラインナップで興味深い。大江健三郎、田中小実昌、カフカ、井戸川斜子など、主人公は縦横無尽に読みまくっている。なかでも中心を担うのは大江健三郎である。正直「大江と育児」なんて想像もしていなかったが、大江には知的障害をもつ息子がいて、その子どもをモチーフにした小説がある。そういった小説の視点を借りて、育児を考察していく点が新鮮だった。こうした引用スタイルそのものが大江の特徴でもあるらしく、引用するスタイルをさらに引用する、まるでマトリョーシカのようだ。

 さまざまな論考が展開される中でも興味深いのは、人が生まれてから「人間」になるまでの過程に関するものである。「人間になったなぁ」と思う瞬間が0〜2歳くらいまで毎日のように訪れる。それは身体、言語能力、心といった具体的な成長であるが、著者が考察しているのはもっと抽象的なものだ。

 赤ちゃんの段階では「考える」ことはない。それは、主人公親子が頻繁に訪れる上野動物園にいる盲目のポニーのようで、赤ちゃんには空洞があるだけ。しかし、成長していく中で、空洞が何かで満たされていくことを「人間化」と称し、その意味を主人公はずっと考えている。この抽象的な感覚およびその思考過程をこんなに言葉にできるなんて、著者の言語感覚がいかに鋭いか。そして、「育児は見ることなのではないか?」という主張は、今年読んだ一連の育児に関する本に通ずるものがあった。

Θの中身、つまり私たちが「考える」という行為を取得してしまったことにより「考える」にとって代わられてしまったもので、幼いΘの内面がまだそれで満ちているものというのは、実はΘの外身にこそ孕まれているのではないか?だったら私がすべきことは、Θが何を考えているんだろうと無理やり私たちの側に引きつけて想像するよりも、ただΘのことをじっと、よく見ていなければならないんじゃないか?

 また、男性である主人公が当たり前のように育児全般を担っている描写が画期的だ。実際に著者が育児に主体的に関わっていないと書けないだろう、ディテールの細かさに驚く。なかでも「ベビーカーだから重い本でも平気である」というのは、著者の明確な経験がそこには宿っていた。

 一日中、赤子を相手にすることは確かに大変ではある。しかし、そのわずかな間隙をありがたがるように、ひたすら読書を続けていく。実質、読書日記の様相を呈しているので、ここまで述べてきた育児の話は、本著の両輪のうちの一つでしかなく、本が好きな人にとっては至福の瞬間の連続である。つまり、本を読んでいるときに時代や立場を超越し、自分の思考に何か違う視座をもたらす、あの瞬間がたくさん描かれているのだ。今や多くの人の余暇がSNSやゲームを中心としたスマホを眺める時間に捧げられているのだろうが、本著はそういった人たちに本を再び手に取らせる可能性さえ含んだ「本の小説」である。

 育児に献身したことを子ども本人は覚えていない事実に主人公は戸惑いを覚えている。しかし、大江の小説を読み続けた先に待っていた「ご褒美」のような、そのことに関する解釈が飛び出す瞬間が描かれ、思わず膝を打った。自身の子どもの協調性について色々思うことが増える中で、その視座は大きな示唆となった。いい意味で諦念を抱きながら、子どもの姿を眺めることができるようになった。(大江の小説を読まずに獲得していることについて、この小説の主人公はいい気持ちはしないだろうが。)子どもの言動に思いをめぐらせて、もうすぐ4年。こうして自分の言葉で考えることこそが育児の喜びであり、苦悩でもあるということを改めて気づかせてくれる小説だった。

2025年12月2日火曜日

湖まで

湖まで/大崎清夏

 著者の名前をいろんな場面で拝見するものの、馴染みのない詩ということもあり実際の作品を読んだことがなかった中で、palm booksから小説がリリースされたということで読んだ。連作小説集で、つながりは緩やかにありつつ、それぞれ後味が異なっていて楽しく読んだ。

 最初の短編は少し不思議なトーンで、目の前で起こる具体的な出来事と心象風景の重なりが独特の世界として立ち上がる。その意外性に驚かされたが、続く短編は一転して地に足のついたリアリティがあり、詩人である著者の「つかみ」としての配置なのかもしれない。

 「別れと自立」が一つのテーマとして映った。誰かと生きていても、ふとしたきっかけで一人になる可能性はいつも身近にある。しかし、ただちに孤独が訪れるわけではなく、ゆるりとした連帯、それは既存の「家族」ではない、もっと広い概念で誰かと生きることについて書かれている。

 私が特に好きだった短編は「次の足を出すところ」。五月の自然を捉えた冒頭の描写に心を掴まれた。状況説明ではなく、余白に満ちた情景描写こそ小説の醍醐味であり、久々に小説を読むことも相まって癒やされた。悲劇的な出来事を扱いつつも、それ以上に「足を踏み出す」という動作のアナロジーが強く胸を打った。でこぼこの地面を歩くとき、転ばずに前へ進むための一歩。車を運転するときにアクセルを踏み出す行為。それらが物語の冒頭と終わりで響き合い、美しい円環構造となっていた。

 また、自立することは移動することを意味し、どの短編でも歩いている場面が多い。等高線が印象的なブックカバーは「移動」が本著の象徴であることを端的に表現した素晴らしいブックデザインだ。本著では詩歌、日記という著者の武器が小説の中へフィードバックされていて、著者の見本市のようでもあった。

 「眼鏡のバレリーナのために」を読んだとき、どこかで見覚えがあると感じたが、既刊『palmstories あなた』に収録されていた短編の再録だった。前回はアンソロジーの一編として縦の比較ができる読み方だったが、今回は同じ主人公の周辺に焦点を当てた横展開で、小説の自由さとタイムレス性を楽しめた。

 感触を大切にしている描写が印象的だった。陶器やギターといった曲線に人間がフィットする、何ともいえない運命的な瞬間が表現されている。確かに陶器やギターは見た目も大事だが、日々使うものだからこそ、手触りこそが大事で、「人生の手触り」がテーマの一つだとも感じられ、文字通りしっくりきた。AIなど実態のない価値がもてはやされる今、物体として存在することの意味を柔らかく表現してくれていた。次は日記を読んでみたい。

2025年12月1日月曜日

美玉通信 第2号 世界の終わりの美玉書店

 先日の文学フリマでゲットした美玉通信 第二号。『美玉ラジオ』というポッドキャスト番組によるZINEである。ポッドキャストではSFを中心に読んだ本が紹介されており、毎月欠かさず聞いている番組の一つだ。ウェブ上にあるのは、最新の三回分のみのアーカイブなので多くは聞き返せないものの、今回のZINEで過去回が文字で読めてありがたかったし、ZINEというフォーマットならではの切り口で「世界の終わり」が提示されていて興味深かった。

 今回は「世界の終わりの美玉書店」というテーマで、世界の終わり系SFについて、対話、エッセイ、小説といったさまざまなスタイルで「世界の終わり」に焦点を当てている。冒頭『PMSのためのガイドブック』から始まるわけだが、PMS=世界の終わり、という見立てが興味深い。私は男性で、どこまでいってもPMSそのものを体験することは叶わないわけだが「世界の終わりかと思うほどの辛さ」であることを男性が少しでも理解する端緒になりうる。どちらかといえば男性的世界観の強いSFにおいて、こういった女性特有の視点によって選書されている点が興味深かった。

 対話パートでは、ポッドキャストで「世界の終わり」について話された過去回が収録されている。私も同じく文字起こしでZINEを制作しているが、文字と音声の違いを改めて感じた。音声はいい意味でも悪い意味でも聞き流せるが、文字だと繰り返し読めるし、目で行ったり来たりできるので情報の粒度が一気に変わる。特にコンテンツの話だと、音声の中で登場してもフォローできていないことがよくあるが、文字はそこもきっちりトレースできる。今回だと『地上最後の刑事』シリーズがとてもオモシロそう。自分のアンテナには引っかかってこないSFの話を柔和な語り口で紹介してくれているので読んでみようという気になりやすい。これも番組の特徴と言える。

 「世界の終わり」というワードだけで、これだけいろんな小説が紹介されていて驚くし、読み終えたあと、ストーリー展開などをすぐに忘却してしまうタイプの人間なので、お二人が話の流れに沿って、それぞれの考えを語っていることに小説への愛を感じたのだった。

 読書系のポッドキャストは色々チェックしているのだが、密度の高いもの、つまり読んでいる前提で話が進んでいくものが多い。『美玉ラジオ』では二人とも読んでいるケースも当然あるが、本の嗜好はバラバラなので、片方が読んでいないことも往々にしてある。読んでいる前提で一定のゴールに向かうのではなく、あくまで会話の流れで本の話をしている点が番組の好きなポイント。終盤に過去回のアーカイブとして掲載されている『わからないを考える』は、まさにこのポッドキャスト番組の魅力そのものが結果として話されているエピソードであり、ZINEに収録されていることも納得だし、折に触れて読み返したい内容だった。

 個人的にもっとも聞き返したかった春暮康一を特集したエピソードが載っていてアガった。『法治の獣』を読んだあとは停滞しているのだが、二人の語る春暮康一の魅力を読むと、読みたい気持ちが再び高まってきたので、その気持ちを大切に次は『オーラリーメーカー』を読みたい。(今年、二回目の決意)

2025年11月27日木曜日

世の人

世の人/マリヲ

 DJ PATSAT『平凡な生活』を読んで、ずっと積んであった本著を読んだ。著者はDJ PATSATこと土井さんが経営するタマウマラで共に働いていた方で、日記に何度も登場する重要人物だ。自転車屋で二人とも文筆業を行っていること自体驚きだが、あまりにもブロークンな著者のスタイルが衝撃的な読書体験だった。

 本著は、著者が大阪で過ごしていた日々を中心に書かれたエッセイ集。冒頭「ダルク体験記」から始まり、あまりにカジュアルなドラッグ描写に度肝を抜かれる。その描写は単にドラッグを嗜んでいるというだけではなく、どういった人がダルクにきているのか、薬物遍歴からその人たちの日常まで、細かく描かれており、こんな人が世の中にいるのかと何度も驚いた。(猫フーさんのエスタック中毒…!)

 一方で友人や彼女といった周辺人物のバックグラウンドはほとんど紹介されないまま、過去と現在を行き来するような散文スタイルで自身の思いが朴訥なスタイルで綴られていく。文章に起承転結はなく、時間軸もバラバラで、何度も場面をスイッチしていく。著者はラッパーでもあるので、リリックのように書いているとも言えるが、正直読みにくかった。しかし、そんな中でも急に具体的なシーンが脳内に突如想起され、心にパーンと入ってくるラインがやってくる。そして、その何かを追い求めるように読み進めてしまう。まさにドラッグのような文章と言える。部分的に抜き出しても伝わらないかもしれないが、コンテキストの中に埋め込まれた瞬間に輝く、著者独自の筆力がなせる技だ。

仕事をして、お金がある程度あって、大事な人が笑っていて、これは当たり前というか、その暮らしの中でもほんの一瞬だけの、幸せなこと、気持ちのいいこと、目を見開くこと、息をのむこと、感動して涙が出ることなど、これらは本当に一瞬で、一瞬でなければ良いのにといつも思うけど絶対に一瞬だから、毎日を丁寧にそっと生きなくてはいけないと思う。

一緒なことは安心だった。暮らしの中で、そうやって定規を他に頼ってやっていると、時々どうしようもなく自分に立ち返ってしまう瞬間に、さてそれを引き剥がさないといけない。

自分の好きや嫌いが反射して、その返ってくる速度で自分というものを計って、その上で、その世界の中で、してもおかしくないことを決めていくような感じ。

 私は大阪出身で著者とほぼ同世代、なおかつ出入りしていた場所が似通っており、あの頃、身近なところでこんなに破天荒な出来事が起こっていただなんて信じられなかった。ラッパーゆえのヒップホップ的なエピソードがいくつかあって、そこにもアガった。ダルクにK-MOONことGradice Niceのビート集があった話、MOBB DEEPの音が流れる中、部屋の壁に頭をぶつける姉、釜ヶ崎の夏祭りでの出番の話など。SHINGO★西成がいうところの「ズルムケ」のヒップホップ的な人生がそこにあり、著者が世で生きていくためにヒップホップや文学があるように映った。

 表題作は宗教二世に関する話で、安倍晋三を殺害した山上被告の裁判が始まった今、タイムリーな話だ。統一教会ではないが、おなじく宗教にのめりこんだ親から子どもがどういった影響を受けるのか、なかなか知り得ない現実ばかりだった。自分たちと異なる信仰を持つ人を「世の人」と呼び、蔑んでいるエホバの思想と、著者が「世の人」に向ける眼差しのかけ算によってマジックが起こっていた。小説みたいな現実の話がたくさん読めたので、次は著者による小説を読んでみたい。

2025年11月26日水曜日

文学フリマ後記

 文学フリマ41東京に出店してきました。今回で3回目。売れ行きはボチボチでした。そもそも育児している人はなかなか来にくい催しだなぁと、開始一時間くらいで気づきました。とはいえ、文学フリマによってできた縁があり、前回来てくれた方が来てくれたりして本当に嬉しかったです。規模が巨大化し、色々言われていますが、自分で出店することで売ることの難しさを体験する意味ではいい場所だなと出るたびに思います。

 そして『乱読の地層』が今回の文学フリマで手元にあった分が売り切れました。(委託分が戻ってくるかもしれないのですが)書評ということもあり、なかなか売るのが難しいなと思っていましたが、最初に作ったZINEが一年かけて売り切れたことに嬉しく思います。買っていただいた皆様、本当にありがとうございます。某先輩から「古本屋に売っていた」という報告を受けて、自分の本が市場にあることを実感したのもいい思い出です。

 そして、『ikuzine』をご購入いただいた皆様もありがとうございます!「育児あるある」に閉じない、広い意味で「子どもがいること、育てること」について語った一冊です。まだまだ発売が始まったばかりでして、取り扱い店舗は順次増えております。詳細は以下の記事を参考くださいませ。

https://afro108.blogspot.com/2025/10/ikuzine.html

 私が文学フリマで買ったもの。出店者だと時間がないので、ファンボーイとしてあらかじめ目星をつけたものしか買えないな〜というのが悩みです。



2025年11月20日木曜日

平凡な生活 DJ PATSATの日記

平凡な生活  DJ PATSATの日記/DJ PATSAT

 ずいぶん前に、Riverside Reading Clubの投稿で『DJ PATSATの日記』の存在を知り、買いたいと思ったときには既に入手できなくなっていたvol.1 & vol.2が文庫サイズで一冊にまとまり、書き下ろしも加わってリイシューということで読んだ。『PATSATSHIT』『ほんまのきもち』も楽しく読んだので期待していたが、本著はまさに原点にして頂点と言える。日記ブームの中、さまざまなスタイルの日記があるものの、この唯一無二性は他の追随を許さない。本著の言葉を借りるならば、「読む前と読んだ後では確実に見える景色が違う」、そういう類の本だった。

 本著は、2020年の vol.1、2022年の vol.2、そして日付のない日記の三部構成。まず、装丁のかっこよさに目を奪われる。モノクロの版画のような写真(?)が外カバーとして巻かれた角ばった文庫。外で本を読むときは大抵ブックカバーしているが、装丁がかっこいいし、持ち歩きには最高のサイズなので、かばんにそのままポンと入れて、移動の合間に読むことが多かった。それは著者が一貫して伝え、実践し、語っている「街で生きる」というテーゼと響き合う行為であり、装丁によって行動が駆動される。そんな本という物体の魅力を改めて感じた。

 vol.1 はコロナ禍真っ只中の日記。当時、人々がどう過ごしているのか知りたくて多くの日記を読んだが、今読むとまるでSFの世界であり、改めてあの頃の特異さを再認識した。著者は大阪・淡路で自転車屋を経営し、人と接して初めて成り立つ仕事をしている。そんな状況の中で、家族、同僚、街の人たちとどのように日々生きていたのかが描かれている。お店をやっていることで、いろんな人が訪ねてくるシーンが特に興味深い。自転車という誰もが使う交通手段、さらには土地柄もあいまって、個性豊かな人たちが続々とお店にやってくる。『PATSATSHIT』を読んだときも感じたが、鋭い観察眼と描写力に基づいた独特の文体は、まるで小説を読んでいるかのようだ。また、変わった客や悪意のある客のことを単に「わるい人」として一面的に描くのではなく、多面的に描いていることから、著者の優しさが伝わってきた。

 本著は店舗日誌、読書日記、さまざまな日記的側面を持ち合わせているのだが、なかでも一番心に残ったのは、育児日記としての側面だった。著者には二人の子どもがおり、小学校・保育園で起こる悲喜交々に何度も感情を揺さぶられた。子どもたちが成長し、自分たちのコミュニティ、関係性を作っていく様をこんなに豊かに書けるのかと何度も唸らされた。特に長男のエピソードは、何気ない話なのだが、著者の筆力もあいまって忘れられないものばかりだ。友人とのけん玉バトルの顛末や、学校に行きたがらない場面で友人たちが登場する場面は涙してしまった。また、長男が周囲と協調しない姿を目にして、自身の「空気を読んできた」過去と照らし合わせ、自分を超えたと認識する場面は、なかなかできない思考の展開だ。

 次男をめぐっては、保育園との関係性の構築が印象的だった。私自身も毎日の送り迎えの中で、保育園、幼稚園という場所の尊さを痛感する日々なわけだが、著者は自分とは別ベクトルで保育園をとらえている点が興味深かった。やはりここでも、お店に来るお客さんに対する眼差しと同様に圧倒的な鋭さと優しさが発揮されていた。先日読んだ『それがやさしさじゃ困る』にも通ずるが、大人は子どもを甘く見るのではなく、しっかり観察した結果に基づいてフィードバックする必要があると思うし、著者は自分の子どもだけではなく、子どもたち全体を本当の意味で「見ている」のだなと読んでいて何度も感じた。その眼差しを前に、自分が一体どれだけ見れているのだろうかと考えさせられた。

 日々の出来事を記録するだけでも日記は面白いが、本著では、各出来事を起点に思想が展開していく点が、並の日記と一線を画している。読んでいるあいだ、インディペンデントであることの意義について何度も考えさせられた。本の引用も含め、これだけ自分の考えを言語化できて、さらには実践できる人間がどれだけいるだろうか。「ストリートナレッジ」とは本著のような作品のために用意された言葉だろう。このラインにハッとした人は全員読むべきクラシックだ。

誰であれ、どのような行為であれ、人が人に手を差し伸べるということには、ある確実な物質的基盤があり、秩序があり、意味がある。その懸命な営みには、素直に美しいと思わせるものがある。瞬間的に芽生えた愛にはそれ自体としての目的はない。しかし思いやりの気持ちを積み重ねることによって、社会という本当に捉えどころのないものに対する観察と考えが深まってゆく。

2025年11月13日木曜日

田我流 ONE MAN LIVE TOUR『流 ~ながれ』東京公演


  田我流のワンマンライブが東京で開催されると知り行ってきた。田我流のライブは2012年『B級映画のように2』のリリパ@WWW、2018年に開催されたCINRAのイベント以来。音楽的に大きな方向転換を果たした『RIDE ON TIME』以降のライブは初めてだった。彼がその間に探求してきた「ヒップホップ道」をしかと感じる本当に素晴らしいライブだった。

 18時45分くらいに会場に着いたのだが、幕前BGMがラジオ形式でNORIKIYOがゲスト出演しているタイミングだった。二人のフランクなトークと共にエクスクルーシブなNORIKIYOのビートジャックが流れてバイブスは満タン。幕前BGMでラジオというのは理にかなっていて、立って待つときの退屈しのぎにベスト。単純なDJではなく、そこで流れる曲に対する田我流の思いも聞けてよかった。ライブ前の待ち時間は持て余すことが多いので、他のラッパーも真似して欲しい。

 また、他にも田我流のエポックメイキングなスタイルとしては、ライブのセットリストを事前に開示しているところだ。当然、一部の曲はマスクされているが、これによって観客たちは事前に盛り上がるための予習ができる。観客たちもライブを構成するバンドメンバーという認識があることが、こういった振る舞いから伝わってくるし、実際、観客の盛り上がりはやべ〜勢いだった。

 息子であろうBIG5LOWによるラップが流れてライブがスタート、まさかの1曲目はビートジャック。Camp Lo 「Luchini」のビートの上で縦横無尽にラップする田我流。今回はパーカッション、トランペット、テナーサックス、バリトンサックス、MAHBIEのターンテーブルという半生バンド編成。「Luchini」はそんなホーン中心の編成が最も映えるクラシックなヒップホップビートである。ここに田我流の温故知新スタイルが端的に表現されており、原曲は1997年リリースだが、2025年仕様の現行のフロウでラップしているあたり、田我流が田我流たる所以と言える。

 当然オケオンリー、マイク一本で魅せていく。ラップが上手いのは当然として、MCを含めてライブの構成が素晴らしかった。チルなムードを演出するのもうまいし、アッパーモードで盛り上げるのもお手のもので、ライブ内での緩急が本当に見事だった。ゆえに本人が繰り返して唱えていたとおり、ライブが「光陰矢の如し」であっという間に終わった印象だった。

 前半はトランペッター黒田卓也が大きくフィーチャーされたEP『Old Rookie』の曲を中心に、前述のホーン部隊が活きる曲を立て続けに披露。なかでも「TARAREBA」のライブでの爆発力がとんでもないことになっていて、ホーンアレンジによってBrasstracksを彷彿とさせるもので原曲にない勢いが加わり爆発していた。

 アレンジの観点でのハイライトは「サウダージ」だろう。ツアータイトル「流」の元ネタとも言える曲で、原曲ではギターが担っていたメロディを同じくホーンでアレンジ。トランペット、テナー、バリトンの三発の重奏的なホーンサウンドは楽曲の新たな魅力を引き出していた。他の楽曲ではサブの役割が強かったパーカッションも、この曲ではここぞとばかりにコンガを叩きまくり。原曲がもつラテンのノリがより強調されていた。この曲に限らず、さまざまなアレンジがライブで施されているのだが、それは田我流が自身でビートメイクを手がけるようになったことが大きく影響しているだろう。ラッパーというより、一音楽家という側面が強くなっており、シェイカー、口笛、フィンガースナップを本人がこなすという、ラッパーとは思えない楽器的な引き出しをこれでもかと披露していた。

 一番とんでもないことになっていたのは「やべ〜勢いですげ〜盛り上がる(REMIX)」→「Ride On Time」小学生の頃、プールでやった「洗濯機」よろしく、フロアにいる人間が反時計回りに動いていくという新たな形のモッシュ。後方で見ていたものの「自分も渦に飲み込まれるの?!」という興奮と恐怖が錯綜する気持ちになった。(実際にはギリ手前で巻き込まれなかった。)REMIXという名のとおり、ハードコアバンド調のアレンジが挟まれ、そこにFlat Line ClassicsのBIG FAFが肩車要員として登場、田我流と合わせて3m超級の熊を彷彿とさせる大きさになり、観客をアジテートしていた。そして「Ride On Time」この規模のライブハウスでトラップの楽曲が最大限に盛り上がると、こんなに床が揺れるのか!と心底驚いた。そして、曲のブリッジで旧レーベルメイトであるLEX「力をくれ」を引用していたことにも驚いた。こういう粋な仕掛けがたくさんあるのも田我流のヒップホップIQの高さを感じた。

 その点でいえば「JUST」は Madvillain「Acordion」のビートジャックでを披露。終演後に飲みに行った友人の話で納得したのは、田我流は昔の曲を大事にしているという指摘であった。「JUST」は1stアルバムの曲であり、別にやらなくてもおかしくない。しかし、ロイヤリティの高い昔からのファンに向けて、単に昔の曲をやるだけではなく、きちんとヒップホップ的アレンジでフレッシュなものにして聞かせてくれる。こういった細かい気配りがあるからこそ、田我流を長い間好きでいられるのかもしれない。そして「JUST」は歳を重ねた今聞くとグッとくるものがあった。

 この日は客演なしの文字通りのワンマンライブであった。客入れBGMのラジオでNORIKIYOが出演していた時点で「今日は出ないのかも…」と思っていたが、「風を切って」の前に本人からのコメントが流れ、出演しないことが告げられた。二週間後にあるELIONEのワンマンライブに出演するが、こちらには来ないのかと思うと悲しい気持ちにはなった。ただMCでもあった通り今日は一人でやり切ることを目標にしていたのだろうし、統一感という点でみると満足度は高かった。客演ではないが、今回は「EVISBEATS DAY」と言わんばかりのセトリで、EVISBEATS×田我流ワークスがコンプリートで聞くことができた。「ゆれる」から始まったコンビネーションだが、まとまって聞くとこの二人の黄金コンビっぷりが伝わってきた。

 ゴリゴリのB-BOYはもちろんたくさんいたのだが、コインロッカーでは学校帰りの女子高生、フロアではスーツをまとったサラリーマン、ノリで入ってきたであろう海外からの旅行客、クラブ常連のギャルなど、私の周辺には本当に多種多様な人がいた。これは田我流が音楽を通じて伝えてきたメッセージが立場を超越し、どんな観客をもロックし続けてきたことの証左だろう。年に一回は東京でライブしたいとのことだったので、まとまった作品が出れば、またライブに遊びに行きたい。

※セトリは全く自信ないです。。。間違いなどありましたら、ご指摘いただけると大変嬉しいです。

2025年11月7日金曜日

ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文

ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文/フェイス・A・ペニック,押野素子 

 ディアンジェロの訃報はかなり応えた。彼自身の音楽が好きだったのはもちろんだが、彼のサウンドに影響を受けた音楽が、自分の嗜好の幹を形づくっているからだ。天才が早逝するのは宿命といえど、彼もその枠に入ってしまったことが本当に悲しい。亡くなってから色んな言説を目にし、耳にしたが、自分が好きだったアーティストに対して、安い言葉や見識でRIPされることが、こんなに辛いのかと初めて知った。そんな汚れた気持ちの中、救いを求めて読んだのが本著だった。繰り返し聞いてきた『Voodoo』がさらに輝き、深みを増す、そのリスニング体験を豊かにしてくれる最高の読書体験だった。

 『Voodoo』を中心にディアンジェロの来歴、音楽を紐解いており、著者が女性であることが本著を特別なものにしている。あとがきで木津氏が書いているとおり、収録曲の「Untitled」をジェンダー視点で読み解いている点が新鮮だ。日本において『Voodoo』について語るとき「Untitled」のMVのセクシュアリティについて話すことは皆無だろう。著者自身の個人的な当時のエピソードを交えながら、新たな切り口で『Voodoo』を捉えている本著の象徴的なパートである。そして、このビデオが生み出したパブリックイメージと自身の本来の姿とのギャップに苦しみ、自暴自棄な行動を繰り返すようになってしまったディアンジェロの姿は、ポピュラリティとアートの狭間でもがいていた彼の人間味が最も現れているとも言える。

 ジェンダーの観点でいえば、アンジー・ストーンとの関係も印象的だった。彼女も今年亡くなってしまっているわけだが、私生活および音楽制作を縁の下でディアンジェロを支えていた話は、著者が指摘する通り、もっと知られるべきだろう。マーケティングの観点で、アンジーの見た目が「ディアンジェロにふさわしくない」とされ、イベントの同伴が断られた話は2025年の今読むと信じられない。一方で、彼女との間に子どもが産まれたことが『Voodoo』の制作において大きな影響を与えていたこと、「Send It On」「Africa」は、子どもありきの曲だと知っると、また聞こえ方が変わってくる。

 制作秘話については枚挙にいとまがない。『Chiken greece』はもともと『Like Water For Chocolate』でコモンが使う予定だったとか、「Devil’s Pie」はプレミアがキャニバス向けに作ったビートだったとか。「Booty」のドラムはギターアンプ、プロセッサーを通した音だったことなど。(「コモンはあのビートで何したらいいか、わかっていない」という言い草に笑った。)そして、『Voodoo』でのディアンジェロの多重ボーカルは、彼のボーカリストとしての力量が並ではないことを示すものだという指摘は、初めて気づかされた魅力だった。

 なかでも、エレクトリック・レイディ・スタジオに集結したソウルエクリアンズ周りのアーティストたちは私が最も影響を受けた存在であり、ドラマーを務めたクエストラブを中心とした各メンバーとディアンジェロの当時のエピソードはどれも至極。皆がスタジオに入り浸り、革新的なことを志した結果、そこでケミストリーが起こっていたことがわかるし、本著を読んでから当時のアルバム群を聞くと、より一層豊かな音楽体験をもたらすこと請け合いだ。以下のラインはそのことを端的に表現している。

一部の人々には散漫で規律がないと考えられていた作品は、今という瞬間を大切にし、ディアンジェロと仲間たちをインスパイアしたR&B、ジャズ、ヒップホップのパイオニアのスピリットを受け入れるという、意図的な試みだった。

 また、エンジニアがこれだけフォーカスされる作品もなかなかないだろう。ボブ・パワーが下地を作り、エレヴァド・ラッセルが『Voodoo』で花開いたアナログに対する徹底したこだわり。2025年の今でも、すべてアナログで制作することは驚異的だと感じるが、当時もちょうどアナログからデジタルへの過渡期。そのタイミングでも、「DとE」はアナログを貫き、唯一無二のサウンドプロダクションを実現したことは奇跡としか言いようがない。終盤で言及されているとおり、DAWの普及で、誰もが音楽を作ることができるようになったことは歓迎すべきことだ。しかし、熟練の演奏者がスタジオで何年もジャムし続けてアルバムを作るという予算をかけた制作法は、ハイパー資本主義の社会において選択肢にも上がらないだろう。テクノロジーの発展が音楽の発展に寄与していることは間違いないのだが、それと同時に切り捨ててしまっているものがある。『Voodoo』はそんな文明論まで感じさせてくれるアルバムなのだ。

 95年の来日同行記を加筆修正した訳者あとがきも貴重だ。「ディアンジェロと日本」という観点であり、翻訳版ならではの内容となっている。来日時の日本での彼の立ち振る舞いで印象的だったのは、自分が出演したコンベンションで遭遇するミュージシャンに対して、知り合いかどうか問わず見かけるたびに挨拶していたというエピソード。しかも、それは日本人のミュージシャンに対しても同様に挨拶していたというのは驚きつつも、彼の音楽に対する真摯な姿勢からすれば納得できる話だ。

 今まで幾度となく聞いてきたアルバムが、背景を知ることでさらに豊かに響く。ビハインド・ザ・ストーリーの重要性は、ストリーミングサービス普及の結果、光速で新譜が消費されていく今こそ顧みられるべきだ。私も新譜チェックは大好きだが、ときには立ち止まって、この音楽が何を意味し、自分にどんな感情を抱かせるのか考えたい。そんなときに、こういった書籍の存在はなにものにも変え難い。ネットでいくらでも情報は取れるが、体系的に整理されていることの価値を改めて痛感した。

 やりきれない気持ちの中でも、最終的に救ってくれたのはやはりディアンジェロの音楽、そして彼にインスパイアされた音楽だった。Soulectionのトリビュートミックスはディアンジェロのレガシーを多角的に表現した、本当にリスペクトに溢れた内容だったので、ぜひ聞いてみてほしい。また、長い間沈黙を貫いていたクエストラブによる追悼文も日本語版で出ているので、そちらもマストチェック。改めてディアンジェロの冥福を祈ります。合掌。

2025年11月1日土曜日

それがやさしさじゃ困る

それがやさしさじゃ困る/鳥羽和久、植本一子

 植本さんが写真を担当されていると知って読んだ。子どもがあくびをしている表紙からは、朴訥で柔らかい内容を想像していたが、実際にはどこでも読んだことのない刺激的な教育論が詰まっており、そのギャップに驚いた。子どもと接することについて、これだけ言語化された書籍は、後にも先にも登場しないかもしれないと思わされるほどの傑作だった。

 まず印象的だったことは、本著を手に取ったときの感触である。普段読む本ではおよそ感じない独特のツルツルとした質感からして、ただものではない気配が漂っている。内容は、鳥羽氏の各種媒体での連載と書き下ろしをテーマ別にまとめたもので、その合間に植本さんの写真が挟まれている。さらにページ下部には鳥羽氏による日記が添えられており、圧倒的な情報量だ。論考も日記もそれぞれ一冊の本にできるほどの分量があり、読後の満足感を考えると、この値段は破格に感じる。

 メインでは、子どもとの関わりや教育に関する論考が中心に展開される。ときに重たく感じる箇所もあるが、実際の子どもとの触れ合いに裏打ちされた思索であることが、写真や日記によって可視化されており、構成として興味深い。特に写真の扱いが印象的だった。よくあるモノクロの挿絵的な扱いではなく、カラーで大胆に差し込まれ、裏面にはフィルム写真のような仕様が施されている芸の細かさ。写真を一つの独立した芸術として取り扱う意図が伝わってきて、その心意気に胸を打たれた。そして、植本さんの写真はもちろんバッチリな仕上がり。つい考え込んでしまいそうな瞬間に、子どもたちのなんでもない日常の姿、表情が、現実へ引き戻してくれる。

 モノとしての完成度は当然ながら、中身も圧巻だった。鳥羽氏は塾、単位制高校、オルタナティブスクールを運営しており、日々子どもと向き合う中での思索があますことなく書かれている。タイトルのとおり、品行方正であることが当然の社会で、「やさしさ」があらゆる場面で子どもに対して発揮される現在、本当にそれは子どものためになっているのか?大人が思考を停止し、責任を放棄するための仮初の「やさしさ」ではないか?ということが一冊を通じて問われている。

 現役の中高生と接する機会のない者にとって、若者たちの価値観や、そこに呼応する親の状況をこれほど丁寧に描いてくれることは貴重だ。その背景にあるのは子どもに対する愛である。ページ下部の日記は、SNSのつぶやきほどの短さながら、そこで垣間見える子どもたちに対する実直な視線が、本著の説得力を強固なものにしている。評論家が、机上で構築した教育論ではなく、日々の実践と観察から導き出された言葉であることが、本書が唯一無二の存在たらしめている。

 私自身は三歳の子どもを育てており、本著の主な対象である小・中・高校生とは距離がある。それでも広い意味での教育論として、心にグサグサ刺さることが山ほどあった。たとえば、教育水準の高い学区に引っ越し、そこに安住する大人の心理を鋭く突いた箇所では、自分の考えを見透かされたようでぐうの音も出なかった。

 一方で、「子どもの自由な選択」にも鋭いメスをいれていく。自由という言葉の裏に、子どもに責任を丸ごと押しつける残酷さが潜んでいることを指摘しており、これも耳が痛かった。言われてみれば、子どもは深く考えずに選ぶことも多いのに、その結果の責任だけ大人並みに負わせるのは酷な話である。とはいえ、実際には「やらせてみないと分からない」という因果応報的な態度は、大なり、小なりやってしまいがちな自分がおり、強く考えさせられた。

 父親の育児参加が必ずしもプラスに働くわけではない懸念についても納得した。子どもにとって、親は小言ばかりのウザったい存在であるのに、それが二人になってしまえば、子どもは逃げ場がなくなるという指摘にハッとした。なんとなく妻が怒っているときに自分は怒る側にならないようにしているし、逆も然りなのだが、内容によっては二人で怒ってしまう可能性がゼロではないので胸に留めておきたい。

 一貫して、鳥羽氏は大人が「こんなもんだろう」と思い込んでいる前提条件に対して懐疑的な視線を投げ続ける。そこには大人が子どもを未熟な存在と見くびっていること、またn=1という極めて少ない母数である「自分」と子どもを比較して、子どものことを安直に捉えてしまう危うさへの問題意識がある。

 なかでも考えさせられたのは「学校に行きたくない」と言われた場合の対処である。右に倣え的な日本の教育制度自体に懐疑的ではあるものの、どうしても横一線から脱落するというイメージが自分を苛んでくる。自分自身がどうしても行きたくないほど、学校に嫌気が差した経験もないので、もし自分の子どもがそう言ったとき、どう対処できるのだろうか?と繰り返し自問自答していた。

 日記パートでは、自分が中高生の親ではないこともあり、自分の過去を振り返ることが多かった。特に受験期のことは、能動的に選択したというよりも、育った環境に流されるように進んできたこともあり、どうすれば自分が主体的な学びができたのだろうかと考えさせられた。短く、遠慮のない、芯をくっている言葉に何度もハッとさせられた。

他人の期待に応えるような人生は自分の人生ではないから。自分に何かを期待してくる人を遠ざけて生きていくということは、大人にとっても大事な知恵。

 巻末で「反省する必要はない」と書かれていたものの、本著を読んだ多くの人が、自分の子どもに対する解像度の甘さにどうしても疑いの目を持たざるを得ないのは事実だろう。しかし、鳥羽氏は自分の「正しさ」を主張しているわけではなく、あくまで自分の視点から見た子どもの話と、それに基づいた自分の考えに終始している。日記にあった以下のラインが端的に本著のポリシーを表しているように感じられた。

賛否両論白熱しているときにどちらが正しいというより、両論あることが波打ち際の防波堤になって現実や倫理を支えていることが度々ある。だから、必ずしも二者のどちらかを選ばなければならないわけではないし、明確な解決法や結論が必要とは限らない。

 日々、心も体も変化していく子どもという動的な存在と向き合うにあたり、大人は硬直した「正しさ」に頼るのではなく、臨機応変に、懐深く寄り添うことの重要性を思い知った一冊だった。

2025年10月30日木曜日

ikuzine

 ポッドキャストでは進捗を話しておりましたが、ついに三冊目のZINEが完成しました。その名も『ikuzine』です。私のポッドキャスト番組『IN OUR LIFE』で話した育児に関するパートを書き起こし、編集した一冊となっています。育児本は世に数多ありますが、他の本とは一線を画す仕上がりになっています。子育てしている、していないに関わらず、ぜひ読んでもらえたら嬉しいです。

 本の中心となっているのは、私、友人のタクボ、小説家である滝口悠生さんとのエピソードです。これまで滝口さんにご出演いただいたエピソードをすべて含んでいます。2016年ごろに初めて滝口さんの小説を読み、その唯一無二なスタイルにぶっ飛ばされて早十年、こんな日がくるとは想像もしませんでした。何事も継続だし、やることに意味があるのだなと思います。そして、滝口さんの協力なしには完成しなかった一冊なので、この場を借りて感謝申し上げます。ありがとうございました。

 そして、ZINEの中でも説明しているとおり、このZINEが実現したのは植本一子さんのおかげです。これまでにもZINEメンターとして、色々と教えていただいたのですが、今回はさらに具体的なアドバイスを懇切丁寧にいただきまして、最後の追い込みでクオリティーが二段、三段あがりました。いつも本当にありがとうございます。

 また、今回は初の試みとして装画を作家の方にお願いしました。はしもとなおこさんという方で、以前に絵を買わせていただいて、家に飾っているくらい、はしもとさんの絵が好きなので、装画を今回お受けいただいたことはとても嬉しかったです。自分の発想になかったペンギンの絵を見たとき、他者と何かを作ることの楽しさや意味を再認識しました。改めてありがとうございます。

 お取り扱いにつきましては、私のウェブショップと各書店で販売させていただきます。ウェブショップの方では、私の育児日記付きのDX版も用意させていただいておりますので、サポートいただける方は、そちらもチェックしてもらえますと幸いです。取扱店舗については随時こちらに追記させていただきます。

取扱店舗一覧

※お取り扱いを検討されているお店の方がいらっしゃいましたら、
以下までご連絡くださいませ。サンプルPDFをお送りいたします。
inourlifefm(あっと)gmail.com

誤植

 なお、誤植が発覚しました。ご迷惑をおかけしてしまい、まことに申し訳ございません。内容としては以下のとおりです。正誤表を差し込みさせていただいておりますが、ご了承いただけますと幸いです。

143ページ 
(誤)2021年 (正)2011年

2025/11/18 
追加で誤植が発覚しました。大変申し訳ございません。

100ページ
(誤)Tを踏み台にして
(正)YouTubeを踏み台にして

こちらについては正誤表には記載しておりません。
ご了承いただけますと幸いです。

反響

行商情報

 なお、文学フリマ41に出店しますので、もしご来場予定の方は、そちらでご購入いただく方が送料分安くなりますのでお得です!関東近郊の方は、ぜひお越しくださいませ。

文学フリマ41東京

会場:東京ビッグサイト 南1-4ホール
日時:2025年11月23日(日)12:00〜17:00

私のブースは南3・4ホール「て-28」です

詳細→https://c.bunfree.net/c/tokyo41/4F/%E3%81%A6/28



2025年10月22日水曜日

中川ひろたかグラフィティ: 歌・子ども・絵本の25年

中川ひろたかグラフィティ: 歌・子ども・絵本の25年

 例によって、子どもが図書館で本を探したり読んだりしているあいだ、大人向けの絵本関連書を眺めていたら、本著が目に留まり読んでみた。なぜなら、村上康成&中川ひろたかのタッグ作品は、子どものお気に入りの絵本だからだ。そして、保育園の卒園式で歌った「みんなともだち」の作者でもある。そんな著者がどういった経緯で子ども向けの歌や絵本を生業にすることになったのか。その経緯を知ることができて、興味深かった。

 本著はタイトルどおり自叙伝であり、著者のキャリアを振り返る一冊となっている。文中には、ささめやゆきという版画家の絵も随所に登場、改行も多く、ページ下部に余白を多く取った独特のレイアウトが軽やかさを感じさせる。読む前は絵本作家がメインの仕事かと思っていたが、もともと作曲、歌手活動が本業で、絵本は後年手がけるようになったらしい。「世界中の子どもたちが」を手がけたのも著者らしく、自分の知っている歌の中に彼がいることに驚いた。

 大学を中退して、保育園で働き始めるところから社会人としてのキャリアがスタート。1970年代前半までは「保育できるのは女性のみ」と児童福祉法で決まっていたなんて信じられなかった。そのため、実際には保育に携わっているものの、書面上は「用務員」として雇われていたというエピソードは時代を感じる。

 朴訥な文体もあいまって、行き当たりばったりで人生を進めているように見えるが、その自由さこそが魅力である。ネットのない時代においては人の繋がりが大事で、人脈が彼に新しい仕事を次々ともたらしていく。とはいえ、人脈だけでなんとかなるわけではなく、著者が驚異的なペースで音楽を作り続けていることが最大の要因だ。とにかくいろんな人を巻き込んで、録音、ライブに奔走する姿はバイタリティの塊である。そこに打算はなく、自分の表現で子どもを楽しませたいという純粋な気持ちが伝わってきた。

 登場人物もさまざまで、一番驚いたのはケロポンズのメンバーと著者が同じバンドのメンバーだったということである。問答無用のクラシック「エビカニクス」(YouTubeの再生回数、1.7億回…!)の生みの親であるわけだが、そんな彼女たちのバックグラウンドを知れたことは思わぬ収穫であった。そもそも大人と子どもが一緒に見にいけるバンドがあったこと自体、驚きである。自分の知る限り、コンサートといえば、「おかあさんといっしょ」や「しなプシュ」くらいで、それらはあくまでショーであり、音楽ライブという雰囲気でもない。バンドサウンドを子どもと一緒に楽しめる機会があるのであれば行きたい。

 一番読みたかった村上康成との出会いと関係についても書かれていた。村上が絵本作家としては先輩であり、著者が教えを乞うような形で関係が始まり「さつまのおいも」の大ヒットによって、この黄金コンビが確立していったようだ。村上の柔らかいタッチの絵と、著者のリズム感のある文体、このコンビネーションが子どもの心を掴んで離さないのだろう。その背景には、著者の保育現場での経験が生きている。抽象的に「子ども向け」を考えるのではなく、具体的に当時の子どもたちを思い浮かべ、彼らに語りかけるように物語を作る。そんな創作姿勢を知ることができたのは大きな発見だった。

 また、今年亡くなってしまった谷川俊太郎とのエピソードも印象的だった。著者が、彼の言葉に心酔し、「同じ空の下に住みたい」と思って阿佐ヶ谷に住んでいたことを後年伝えると、谷川が「それは同じ空じゃなく、同じ雲の下だよ」と返したという話は、あまりに谷川俊太郎すぎる。

 子どもの絵本をきっかけに、自分の知らなかった世界が広がっていくのは楽しい。これからどんな本を好きになっていくのか、引き続きその様子を見守っていきたい。

2025年10月20日月曜日

ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門

ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門

 宇多丸史観の日本語ラップについて読んだので、当人が自ら語るヒップホップ史の本を読んだ。初版は2018年、私がブックオフでサルベージしたのは2024年の5刷。ヒップホップブームの中で、多くの人がまず最初にこれを手に取り、理解を深めようとしていることがうかがえる。読みやすさ、まとまり具合でいえば、入門書としてこれ以上のものはない。ヒップホップに興味を持ち始めた人にはおすすめだし、私のように長年聞いてきたヘッズでも新たな発見がたくさんあり興味深かった。

 本著は2018年にNHK-FMで放送された10時間にわたるヒップホップ特番の書き起こしである。司会はRHYMSTER 宇多丸、サポートに音楽ライターの高橋芳朗&渡辺志保、音出しなどでDJ YANATAKEというメンバー編成。構成としては、アメリカのヒップホップの歴史を年代順に辿りながら、その時代の日本語ラップシーンゲストを交えつつ、歴史を振り返っていく。つまり、「アメリカで何が起きていたか」と「日本ではどう受け止め、どう応答していたか」をパラレルに描いている点が本書の大きな特徴である。

 こういった構成になっているのは、日本語ラップが常にアメリカのヒップホップをリファレンスし、自分たちのスタイルを模索してきたからに他ならない。その第一人者のプレイヤーである宇多丸、BOSE、Zeebraが語っている内容は、「どうすれば日本語がラップとしてかっこよく聞こえるか」というラップの聞こえ方の話が中心で、そこに至るまでの試行錯誤が伝わってきた。番組の締めには、当時1stアルバムを出したばかりのBAD HOPが登場し、スタジオライブで幕を閉じる。アメリカの文脈を踏まえつつ日本語で表現する、その継承と更新を象徴する構成だ。日本語ラップの現状の盛り上がりは、国内アーティストを中心としたドメスティックなものにとどまっているように最近感じる。その中で、YZERRが自らメディアを立ち上げ、あの超弩級のアメリカのラッパーたちと日本のラッパーというラインナップでヒップホップ特化のフェスを開催したことは、本著の意図の延長線にあると言えるだろう。本著でも語られているように、ヒップホップは時代ごとにアップデートされる共通ルールのもとで、世界規模の競争が行われるゲーム的な音楽なのだ。だからこそ、アメリカを中心としたグローバルなトレンドを常に参照し、その文脈の中で日本語ラップを位置づける視点は欠かせない。

 日本語ラップのパートでスリリングだったのは、MC漢が登場する場面だ。この二人がNHK-FMで当時のことを振り返るなんて企画を立案、実行した担当者の方々にリスペクト。前述の二者は同世代かつ交流もあるわけだが、世代も信条も異なる中で、宇多丸がMC漢のオリジナリティの高いスタイルの起源を紐解いていくあたりは知らないことだらけで驚いた。今でこそYouTubeで共演するレベルの関係性だが、2018年段階では貴重な邂逅であり、文字だけども緊張感がちゃんと伝わってきた。

 アメリカサイドは、基本的なヒップホップ史を改めて俯瞰できる構成になっており、自分の中のタイムラインが整理できた。特に東海岸、西海岸以外のヒップホップに理解が浅い自分にとっては、南部の歴史を流れで知ることができて勉強になった。合間に各人が持っているヒップホップ小ネタが挟まれるのがオモシロく、宇多丸はライター時代のインタビューエピソード、高橋氏はヒップホップ以外の音楽とヒップホップの関係性、渡辺氏はスラング、ゴシップなど鮮度の高い情報、DJ YANATAKEはレコ屋店員時代の経験といった形で、それぞれの得意分野が相補的に機能し、情報に厚みが増していた。

 歴史の授業あるあるだが、黎明期〜2000年代までの説明が丁寧になった結果、近年の動向が相対的に弱くなってはいる。特にヒップホップは50年の歴史の中で目まぐるしくスタイルが変遷してきており、最近のトレンドについて知りたいと思って読んだ人は肩透かしをくらうかもしれない。しかし、ヒップホップのオモシロいところは、過去をサンプリングという形で何度でも再評価、再構築するところだ。ゆえにクラシックを知っていることで、新しい曲のコンテキストを深く味わうことができる。だからこそ、こういった形で体系的に歴史を網羅した一冊は定番として読み継がれていくだろう。

2025年10月16日木曜日

世界へ ガザからの漫画

世界へ ガザからの漫画

 blackbird booksのインスタで知って読んだ一冊。イスラエルとパレスチナの間では、人質解放をきっかけに和平へのわずかな兆しが見え始めているものの、依然として先行きは不透明だ。そんな状況で、ニュースでは感じ得ないガザに住む人の生の感情が本著から伝わってきて、なんとも言えない気持ちになった。

 原作は医学生、作画は英文学専攻の学生。ともに2003年生まれという若さで、戦争に巻き込まれている現実を突きつけられる。物語は、戦禍に巻き込まれたある学生が、北部から南部へ避難しながら、ガザで起こっているジェノサイドを止めてほしいと訴える手紙を凧に託し、塀の向こうへ飛ばすというもの。誰かがそれを受け取ってくれることを祈る、ただそれだけの話なのだが、結果的に誰も止めることができず、日々が過ぎていった現実に胸が痛くなる。

 決して絵が上手いわけではないのだけど、「描かずにはいられない」という衝動が伝わってくる。また、弱いタッチや直筆の文字から情勢の不安定さがにじみ出ていた。あとがきで語られる木炭の話は、紙とペンさえあれば何とかなるという希望と、絵を描くのに木炭を使わないといけない絶望の両方が同時に伝わってきて苦しかった。

 「他国における戦争がどうして自分ごとにならないのか?」は答えがなかなか出ない問いである。BDS運動としてマクドやスタバをボイコットできるかと言われれば、実質そんなことはできておらず、娘との食事でマクドを選んでしまう。一方で、CanteenのBoiler Roomとの協業に関する声明には正直納得できなかった。このように戦争に対して是々非々で接しているとき、自分が部外者であり、無力な存在だなと感じる。

 そんな中、自分の身近な日常の中で、イスラエル寄りに映る両論併記的な発言をみかけた。いかにも平和主義のように見える「戦争を起こさないようにしよう」という発言が、親イスラエル側から発されることに違和感を感じたのだった。多くの子どもが亡くなっているジェノサイドをすっ飛ばして「両方の問題だよね」と、このタイミングで言うことなのか?と納得できなかった。とはいえ「平和が一番」という旗印のもとでは、多くの人にとっては私の感じた違和感は伝わりにくいかもしれない。実際、妻とは「何が問題なのかわからない」という話になった。

 情勢が複雑になるほど理解が追いつかず、戦争は遠くの出来事になっていく。だからこそ、こうして当事者が書いた本を手に取り、少しでもその痛みや現実に触れることが、自分にできる小さなアクションなのかと思う。戦争に胸を痛めている人には、ぜひ読んでみてほしい。

※bbbではすでに在庫切れでしたが、ほかの書店ではまだ購入できるようです。

2025年10月12日日曜日

ヘルシンキ 生活の練習は続く

ヘルシンキ 生活の練習は続く/朴沙羅

 一作目がオモシロかったので、続編である本著も読んだ。毎年、友人とポッドキャストでその年読んだ本について話しているが、2024年の友人の4位だった。前作でも、よく見かける「フィンランド万歳本」とは異なるシャープな視点が印象的だったが、本著はさらに先鋭化、フィンランドの考え方、歴史的背景により迫った内容になっていた。

 著者は子どもを二人を育てながら、ヘルシンキ大学で働いている。日本とフィンランドを往復する生活を送っている。仕事と家事をこなす中で著者が感じたことがエッセイ以上、論文未満くらいの温度感で書かれており、読みやすさと読みごたえのバランスが絶妙である。

 第一章は前作の延長線上とも言える内容だったが、第二章、第三章の「戦争と平和」で一気にギアが変わる。戦争は突然起こる、そのリアリティを体現するかのように唐突に始まるので、面食らった。ここでは、ウクライナとロシアの戦争がフィンランドでどのように受け止められ、何が起こったのか、さらに「フィンランドと戦争」というテーマのもとで、歴史的背景を含めて掘り下げられていた。

 「フィンランドって徴兵制があったような…」という程度の知識しかなかった私にとって、2023年のフィンランドのNATOへの加入についてリアルタイムで追いかける描写は刺激的だった。地政学的なバランスの上で、ロシアと西洋諸国のあいだに立つ「中立国家」としての立場から、ウクライナ侵攻によりバランスが変化、フィンランドはNATOへ加入した。地政学としての戦争、実際に生活の中でみる戦争。マクロとミクロの視点を使い分けながら、大陸として地続きの近隣で戦争が起こるとどうなるのか?日本では体験し得ない現実の数々が興味深かった。

 本著を通底するテーマとしては「権利」が挙げられる。近年では、排外主義とセットで語られることも多い「特権」や、「人権」とは何か?など、フィンランドで移民の立場になったからこそ見えてくる、権利のあり方に関する論考は読み応えがある。前作が制度をベースにした話だったとすれば、本著ではその背景にあるフィンランドの根本的な思想にまで踏み込んでいる。その議論にあたっては、著者が在日韓国人として日本で生きてきた経験がオーバーラップしていく。客観的にフィンランドの事情を知るだけではない、主観のレイヤーが入ってくることで唯一無二な一冊となっていた。

 また、成長した二人の子どもの視点が多く取り入れられているのも特徴的だ。その率直な発言が、しばしば硬くなりがちな議論をほどよくほぐしている。前作から引き続きバリバリの関西弁なのだが、そこも先鋭化して明確に京都弁になっているところもオモシロい。子どもの芯をくった発言は、SNSでは格好のバズ案件であり、本著でもある種の混ぜ返し役として繰り返し登場するわけだが、それでも著者はこれを良しとはしない。なぜなら「子どもの無垢な発言は社会規範、知識不足を子どもの理屈で補っているから」と書かれており、その精緻な分析に膝を打った。

 「普通」に関する議論も目から鱗だった。もう長いあいだ、「多様性」「みんなちがってみんないい」といった言葉が使われてきた一方で、今やそれらが形骸化していることは否めない。それは発信している側のインクルージョン的なアプローチ、特定の規範(つまり普通)からはみ出した人間を受け入れる、この権力勾配に皆がうっすら気づいているからだろう。フィンランドでは、普通は存在せず、それぞれは異なっており、全員が特殊なのだという。これは「右に倣え」の日本に住んでいると感じづらい。当然、その精神が役立つ場面があることは理解しつつも、今の政治や社会状況を鑑みると、その「倣え」があまりに押し付けがましい場面を散見し辟易とするのだった。SIMI LABよろしく「普通って何?常識って何?んなもんガソリンぶっかけ火つけちまえ」というラインを信条として生きてきたが、ガソリンぶっかけて火をつけなくても「その普通も特殊である」という一歩引いた大人の視野を本著のおかげで手に入れることができた。

 政治との距離感に関しても考えさせらることが多く、自分の意見を伝えること、またその伝え方を、子どもたちは大人の振る舞いから学ぶことを痛感した。つまり、大人たちが自分の意見や不平不満をきちんと伝える姿を見せることは大切なのだ。そして、フィンランドでは、声をあげることは自分のためではなく、みんなのためだという認識があるという話は驚くしかなかった。また、意見と人間をしっかり分離する必要性も著者は唱えていた。正直、今の時代、「レッテル貼り」という言葉のとおり、その態度は難しい場面も多いが、対話しなければ、社会は前進していかないことは間違いないので、肝に命じたい。(私はとても不得意…)

 終盤、一人で完結せず、他者と集団をつくって実現していくことの重要性が語られていた。現代社会では個人主義が進み、何でも自己完結しがちだが、だからこそ「集団で何かを成す」練習が必要だという。フィンランドと日本を単純に比較できるわけではないが、フィンランドという鏡を通して日本の価値観の歪みを照らし出す本著は、読み終えたあとも長く考えさせられる一冊だった。

2025年10月9日木曜日

本が生まれるいちばん側で

本が生まれるいちばん側で/藤原印刷

 空前のZINEブームの中、私もその流れに乗るようにこれまで二冊を制作してきた。本にそこまで関心がない人にとっては、なぜZINEがこれほどまでに盛り上がっているのか不思議に思うかもしれない。本著は、そんな「本を作ることの醍醐味」を印刷業の視点から解きほぐしてくれており、自分の欲求が言語化されているようだった。

 長野県松本市にある藤原印刷で働く藤原兄弟。二人とも東京出身で、東京で印刷とは異なる職に就いたのち、祖母が創業し母が継いだ藤原印刷で働き始める。出版業界の斜陽化が叫ばれて久しいが、印刷業もまた同様に厳しい。既存の堅実な仕事だけでは先行きが見えない中、彼らは個人出版の印刷を新たに受注し始めた。そんな挑戦の歩みと、実際に手がけた作品の背景が丁寧に綴られている。

 現在、ZINEの印刷において主流となっているのは、ネットプリントであろう。私自身も小ロットかつ安価に制作できるその利便性から活用している。本著ではその利便性を認めつつも、「本が生まれる」過程そのものをもっと楽しんで欲しいと語られており、装丁を考え、制作することの面白さが、具体例と共に説かれていてワクワクした。

 これまで私は「本は中身がすべて」と思っていたが、実際に作ってみて気づかされたのは、「モノとしての佇まい」が手に取られるかどうかを大きく左右するということだった。本著には、そんな「見た目」をいかに工夫できるか、その知恵と情熱がこれでもかと詰まっている。兄弟がともにベンチャー企業で働いていた経験も影響してか、本作りに対する前のめりなエネルギーを感じる。営利企業である以上、利益は当然大切であるものの、クライアントに最適な答えを導き出そうとする社内全体の活気が伝わってきた。

 装丁がユニークな本の事例がたくさん紹介されている、その本自体の作りがユニークというメタ構成も見事である。一番わかりやすい例として、本文に五種類もの紙が使われている点が挙げられる。さらに、文字をあえて薄く印刷する技術なども実物で提示されており、説得力がある。

 情報の中心は今やインターネットにあることは間違いない。しかし、その情報は流動的であり、いつまで残っているかもわからない不安定なものだ。そんな状況で、ZINEがブームになっているのは、本著でいうところの「閉じる」行為によって、情報や感情を固定したい欲望が背景にあるのだろう。私自身もブログで書いていた書評やポッドキャストの書き起こしをもとにZINEを制作した。ネット上で読んだり聞いたりできるにもかかわらず、多くの人に手に取っていただいたのれは、発散していた情報を「閉じる」という行為によって文脈を与えられたからだと感じる。本著にある「自分が編み上げた世界」という表現は、まさにその感覚を言い当てている。

紙の本は印刷された瞬間に情報が「固定」される。つくり手にとっては「伝えたいことをノイズなく齟齬なく伝えられる」ということだ。自分が編みあげた世界に読み手をぐるぐる巻き込むことができる。

 終盤の「出版と権威」に関する話も示唆的だ。藤原印刷やネットプリントのように個人の印刷を請け負うサービスや、電子書籍が登場する以前、本を作る行為は特権的なものであった。つまり、本を発行するには、誰かに認められる必要があったわけだ。しかし、今は誰もが自分の意思で本を作ることができる。その自由を謳歌するように、多様な立場の人が本を作ることで、世界が少しずつ前進していく。本著の高らかな宣言には多くの作り手が勇気づけられるだろう。

 奥付のクレジットも通常よりも詳しくなっており、本づくりの工程に、どれだけたくさんの人が携わっていることが明示されていた。「クラフトプレス」ならではの心意気と言える。自分の今のスケールだと藤原印刷で依頼するほどではないのかと正直思ってしまうが、いつかお願いできる日が来ればと思わずにはいられない。

2025年10月6日月曜日

脱獄のススメ 壱

脱獄のススメ 壱/NORIKIYO

 俺たちのNORIKIYOが帰ってきた…!ということで、クラウドファンディングの返礼品が到着したので、速攻で読んだ。(現在もマーチの一つとして購入可能)インスタで公開されていたファンに向けた手紙や、出所後のblock.fm『INSIDE OUT』出演時のエピソードなどから、過酷な獄中生活をなんとなくわかったつもりでいたが、まったくわかっていなかった。ここまで事細かな取材報告を届けてくれたことは、ファンにとって最高の贈り物と言えるだろう。

 本著は、収監されたDay Oneから一日も欠かさず綴られた獄中記だ。二段組で、とんでもない分量となっており、読了後の満足感はお値段以上である。(壱)と題されているとおり、本著に収録されている日記は八ヶ月分。NORIKIYOは実刑三年のうち二年で仮釈放されているため、単純計算でまだあと二冊は発行される可能性がある。この一冊だけで圧倒的な満足度にも関わらず、まだ読めるのか…と思うとワクワクが止まらない。これまでのリリックやインタビューからして、文才は明らかだったわけだが、それがここでは存分に発揮されている。

 日記で書かれていることは、刑務所での生活を中心にしつつ、彼の思想や過去の出来事などである。「潜入取材」と称して、2020年代の刑務所がどういった場所となっているのか、丁寧に書いてくれている。D.Oの獄中記『JUST PRISON NOW』を読んだときにも感じたが、刑務所は同じ日本とは思えないほど過酷な環境である。「罪を犯した人間だから、どんなに過酷でも耐えろ」という考えが根強いのかもしれないが、それは実態を知らないから言えることだ。居室に冷暖房が一切なく、入れ墨を入れた人の写真は開示されないなど、時代錯誤な制度がまかり通っている。NORIKIYOの指摘しているとおり、誰がいつ当事者になるかはわからないし、再犯率を下げるための更生施設とはうまく機能していない現状がある。たとえ受刑者だとしても、その人権が考慮されるべきではないかと、日本の刑務所制度について考えさせられるのだった。

 今回の獄中記の大きな特徴は、NORIKIYOが国の指定難病を抱えながら服役していた点にある。重い病気を抱えた人間が刑務所でどんな扱いを受けるのか。その管理体制の実態は杜撰なものだった。構造的な問題が多い中でも、属人的な運用が多分にあり、親切な刑務官もいれば、最悪な刑務官もいる。その人情味、陰湿な感じは日本社会を象徴しているようだ。NORIKIYOはウィットを混ぜ合わせながら、それらなるべく面白おかしく描いていた。本当はムカついていることが山ほどあるはずだが、日記として言語化することで自分の気持ちを落ち着けているようだ。最近は日記ブームだが、これほど「書くこと」がセラピーとして機能している例はないだろう。

 そして、なかでも興味深いパートは、周りの受刑者たちの描写 a.k.a 取材報告である。彼の収監先はいくつかあるのだが、それぞれ環境やムードが異なっている。はじめの方は、病を抱える受刑者の多くいるエリアに収監されていたため、高齢者が多く、刑務所が介護施設と化している実態が見えてくる。やがて工場勤務へと移ると、今度は十年以上の刑期を抱える人たちが増え、普段何気なく接している人が、過去に人を殺めてたりする。(れんこんのよっちゃん…!)きつかったのは、レイプを声高に自慢話のように語っている受刑者の存在だ。このように悪自慢する人たちを華麗にスルーし続けないと、いつかトラブルに巻き込まれ、懲罰で出所が遅れる可能性がある。そんなヒヤヒヤした環境のなかで過ごすNORIKIYOの心中は察するにあまりある。

 思想面では、大麻政策を筆頭に彼の国家観や世相批評がふんだんに書かれている。曲中では語り切れないことが、日記というフォーマットゆえに自由に綴られていた。こういった自己開示はアーティストにとって諸刃の剣だが、NORIKIYOの思想と感性を知ることができることはファン冥利に尽きる。最近、彼と同世代のラッパーやDJによる同姓愛蔑視の姿勢にうんざりしていたが、NORIKIYOが明確に同性愛蔑視を否定していたことに、勝手に胸を撫で下ろしたのであった。彼の他者の痛みに対する感受性の高さこそ、今の時代に必要なことだし、自分がなぜ彼のラップを聞き続けてきたのか、読み進める中でその理由がよく理解できた。

 今のNORIKIYOといえば、大麻の話は避けて通れない。難病の治療薬を長期服用する中で耐性がつき、より強いステロイドを使わざるを得なくなり、その服用によって胃がんリスクが上昇してしまう。それを避けるために大麻を食して独自に緩和治療していたという経緯がある。日本ではどんどん大麻は厳罰化方向に進んでいる中で、彼がこれまで学んできた知識が本著内でフル動員されており、日本の大麻を取り巻く環境に関して解説本を書けそうな勢いである。生産者としての知識、法体系への理解、国内外の研究まで、彼の言葉を全て鵜呑みにしていいとは思わないが、自分の生死がかかった情報について、国内外含めていろんなアプローチを取ってきたことが、書きっぷりから十二分に伝わってきた。「お上のいうことをそのまま信用していていいのか?」という問いは、大麻に限らない普遍的なテーマといえる。安易な「Fuckバビロン」ではなく、自分の生死をかけた実践の上で語られる「リアル」には説得力があった。

 さらに、ファンにとって嬉しいのは、過去の出来事やヒップホップに関する記述である。楽曲のビハインド・ザ・ストーリーや彼のヒップホップ観があますことなく書かれていることはありがたい。中でも驚いたのは、彼の足の怪我がいかにセンシティブなものかということだ。ライブを何度か見ているが、気になったことは一度もなく、今まで一体どうやって乗り切ってきたのだろう?と思ってしまうほどだった。他にも、詩集『路傍に添える』を巡るミラクルはヒップホップの神様がいるとしか思えないエピソードだった。さらには「2 Face」を聞いて検事辞めた人、「証言」のジブさんバースの引用、ZORN「REP」のハグライフの真相とか…本当にキリがない。こういった具体的なエピソードだけではなく、ヒップホップがいかに救済の音楽であるか?が日記全体から痛いほど伝わってくる。本著を読んでいると、自分がヒップホップが好きで良かったと何度も思わされた。

 本著の発送スケジュールについて連絡があった際、ライブは2026年6月以降とのことだった。ストリーミングで音楽を聞くこともあるが、グッズを買うことも一つのサポートであり、本著はNORIKIYOの音楽に一度でも心が動いたことがある人はマストバイだし、2020年代の獄中記として読めるもので本著を超える物は出てこないだろう。まごうことなきクラシックだ。

2025年10月2日木曜日

日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること

日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること/中村拓哉

 日本語ラップに関する批評の本ということで読んだ。日本語ラップを批評的に扱う作品は、先日読んだ『アンビバレント・ヒップホップ』などがあるが、依然として数は少ない。そうした状況において、本書は批評という切り口から本格派の登場を告げる一冊であり、日本語ラップを聴く楽しさを論理的に理解できる醍醐味がふんだんに詰まっていた。

 三部から構成されており、第一部が日本語ラップ概論、第二部が批評論、第三部が具体的な作品批評としてSEEDAのアルバム『花と雨』を取り上げている。第一部は著者の日本語ラップ観を提示する宣言のような章で、テーマは「一人称」である。ヒップホップが他の音楽と決定的に異なるのは、極端にパーソナル性を要求する点だと説かれる。

 その「一人称」を起点に展開される「宇多丸史観」は本著の白眉である。現在では映画批評などを通じ、日本カルチャーにおける批評的眼差しの第一人者といえる宇多丸だが、彼が日本語ラップにおいて打ち立てた「一人称」こそが重要であり、すべての始まりだったという見立ては興味深い。当初は空洞だった「一人称」に、さまざまな出自のラッパーが登場することで、日本語ラップが本来のヒップホップのあり方に近づいていく流れに、まさしく首を縦に振った。宇多丸の批評的立場を真正面から評価する言説がほとんどなかった中で、本著は歴史的な一冊といえる。長年ヒップホップを聴き続けてきたリスナーだからこそ得られる視座ともいえるだろう。

 また、いとうせいこうが「日本語ラップの創始者」とされることへの違和感が見事に言語化されていた点も印象深い。ヒップホップを「盗み、差異化する概念」として捉えるか、それともオーセンティックな音楽として「ヒップホップ」に忠実であるか。この二つをわけて論じることで、日本語ラップにおけるアティチュードの重要性が浮かび上がる。これは現行シーンのラッパーにも当てはまる課題だろう。海外で流行するスタイルをそのまま日本語で行うのか、それとも異化させて日本語の表現としてのヒップホップを模索するのか。そのアティチュードはいつの時代も問われるからこそ、本著で改めて整理されたことの意味は大きい。

 第二部は批評そのものについて議論が展開される。正直にいえば難解で、日本語ラップが好きで読み始めた人はここで挫折してしまうかもしれない。私自身も、著者の主張の半分も理解できているか、怪しいところである。議論が抽象的かつ、さまざまな言説が引用され、それこそサンプリングミュージックよろしく、チョップ&フリップしているようだからだ。元ネタにあたる哲学的な議論の難解さに加えて、さまざまな論点を接続していくので、この手の言説に明るくないと厳しいものがある。しかし、この手法こそが日本語ラップ的な批評の実践であり、以下のラインはそれが端的に表現されていた。

言葉を名で呼び、連関から破壊的に抜き取り、それを新たなテクストのうえで韻を踏ませて。根源へ引き戻す過程を経て、引用された言葉に新たな「死語の生」を生きさせること。

 わかりやすいのはタイトルにある「繰り返し首を縦に振ること」と批評の関係性である。この動作は、BPMが85〜100ほどのヒップホップの曲に対してリアクションする動作である。ここから「反復」「肯定」という要素を抽出して、本人の宣言どおり日本語ラップ的に「反復」「肯定」を論じていく。「なるほど」という言葉を多用し、「反復」「肯定」をリテラルに表現することで、離脱しそうな読者を置いていかないような工夫がなされていた。

 第二部は第三部で楽曲批評を進めるための準備段階と位置づけられるが、著者がここまで徹底的に理論武装している背景には、日本語ラップ批評に向けられる、ラッパーやリスナーからの否定的な眼差しを意識してのことだろう。「お前が頑張れ 似非評論家」というSALUのパンチラインに象徴されるように「一人称」の音楽であるからこそ、本人の意向が他の音楽よりも重視される。その中で第三者が日本語ラップを批評する意義をどう担保するのか?著者はその問いに向き合うため、これだけ理論武装しているとも言える。冒頭で宣言しているとおり、批評は中立であったり、対象の意向に沿っている必要はない。著者の言い方を借りれば「より偏向した、より差異的」な視座だからこそ、日本語ラップの本質に迫っていくことができる。

 難解な議論の中でも、具体的に日本語ラップが参照されることで理解が進む場面もあった。PUNPEEのサンプリングセンスとベンヤミンの自然史概念を接続した議論や、RUMI「あさがえり」に対するアナロジー的批評には強く心を動かされた。必ずしも有名でない曲でも、批評によって光が当たり再び輝き出す。このマジックこそ批評の醍醐味だろう。

 第三部ではいよいよ『花と雨』の研究・批評が展開される。日本語ラップを代表するクラシックであり、特に30代〜40代のヘッズにとって特別な一枚だが、ここでは「日本語ラップを語る」という行為そのものを一段引き上げる試みがなされていた。押韻を軸とした批評の眼差しを日本語ラップに向けることで、思いもよらない解釈へと導かれていく。

 画期的だと感じたのは、バースを意訳している点である。意訳してしまうとラップの行間に宿るポエジーを削ぎ落とすため、野暮ったい印象は否めない。しかし、この作業を通じて浮かび上がる解釈の豊かさは他にない体験だった。理論を背景に押韻を軸とした批評が深度を増し「一人称」の音楽としてのSEEDAの圧倒的な描写力が浮かび上がる。そこにBESやNORIKIYOといった仲間が関連し、複数の「一人称」が連帯を生む様が痛快に描かれる。「花と雨」と「水と油」の対比、SEEDAと雨のモチーフの関係性など、聴き込んできた曲に新鮮な視点が与えられる。さらに「Sai-Bai-Man」のホモフォビア的リリックを大麻というメイントピックと接続し反転させる批評も見事であった。ラストで提示される「遠く韻を踏んでいる」という押韻の新たな視座は、『花と雨』の最深部に到達したかのような感覚さえあった。

 現在の日本語ラップは人気拡大に伴い、爆発的なプレイヤー数が増加し、リリース量が過去に比べて膨大になっている。したがって、一曲ごと、もしくはアルバム単位で、これだけ真剣に向き合うことは難しい。しかし、本著を読むと、向き合えば向き合うほど、音楽の体験が豊かになることがわかる。実際、読んでから『花と雨』を聞くと、今まで幾度となく聞いているにも関わらず、リスニング体験に「新たな生」が付与されたようだった。

 本著で論じられている日本語ラップは、現在のメインストリームとはやや距離がある。今の日本語ラップにおいて、首を縦に振ってリアクションする曲は多数派とは言えないからだ。トラップ登場以降の日本語ラップのリアクションは、首というより全身を揺らす、より身体性の高い音楽となっている。さらに本書で批判的に扱われたJ性も、Jポップ的なメロディーを特徴としたハイパーポップを筆頭に若い世代では人気を博している。ストリーミング時代のグローバルな音楽市場では「内なるJ」が自身の個性、オリジナリティとして考える新世代のラッパーも登場しているからだ。もし次作があるのであれば、より現行シーンの日本語ラップについて、第三章のような形で研究されたものが読みたい。

2025年9月29日月曜日

ブラック・カルチャー 大西洋を旅する声と音

ブラック・カルチャー 大西洋を旅する声と音/中村隆之

 このタイトルで岩波新書となれば、読まざるを得ないと思って手に取った。ヒップホップをはじめ、アメリカ、イギリスのブラック・ミュージックが好きな人間であればあるほど、「ブラック」という呼称について考えをめぐらせることになる。本著では、大西洋を軸に据えることで、宗主国の視点だけでなく、オリジンであるアフリカに焦点を当てている点が新鮮だった。

 タイトルどおり、ブラック、つまりアフリカの人々が奴隷として北米や南米(著者はアメリカスと呼んでいる)へ連行された結果、誕生したカルチャーの変遷を追った一冊となっている。ドラマ『ザ・ルーツ』、映画『それでも世は明ける』、小説『地下鉄道』など、アメリカにおける奴隷制度を題材にした作品は色々と見たり、読んだりしてきたが、それでも抜け落ちている視点がまだまだあることを痛感させられる。近視眼的ではなく、もっと俯瞰した形で、北米に閉じないアメリカスとアフリカの関係性を捉えることで、文化の豊かさをさらに噛み締められるのだ。

 ここ日本でもヒップホップが爆発的人気を獲得している今、ヒップホップのルーツとどう向き合うべきか?という問いは、しばしば問われがちだ。つまり、それが借り物の文化であることに自覚的かどうか。しかし「貸し借り」という窮屈な図式に陥るよりも、本著を読むと、アフリカの人々が連綿と伝承してきた音楽スタイルの延長線上に、日本のヒップホップが存在していることに気づかされ、歴史の壮大さに対して自然と敬意が芽生える。それを可能にしているのは、著者が「環大西洋」という広い領域を対象に、現行のブラック・ミュージックを位置付けているからだ。また、ブラック・カルチャーはアフリカ系アメリカンが占有するものではないことを丁寧に示しており、後ろめたい気持ちがいくばくか和らげられる人もいるだろう。(決して盗用の肯定ではないことは補足しておく。)

「自分は〜である」とその反対の「他者は〜である」というアイデンティティ画定の呪縛を解除し、絶えず混交状態を生きている私たちの生の実態をむしろ見つめましょう。そのことを教えてくれるのもブラック・カルチャーです。ブラック・カルチャーが植民者の文化を受容し、何世代もの創意と工夫によって自文化をつくりあげてきたように、私たち一人ひとりもまた、日本語をはじめとする文化を共有しながらも、世界のさまざまな文化にかかわり、ときに他者の文化を自己の属性に変えながら、生きています。

 「ブラック・カルチャー」とはなっているが、音楽が一番フォーカスされているテーマである。奴隷制によりアフリカの各民族が分断され、奴隷としてアメリカスで過酷な労働に従事する中で、なんとか伝承されてきたのは、口頭伝承だからこそ。文字に残されなかったがゆえのニュアンスがメロディやリズムに息づき、その揺らぎがブラック・ミュージックのグルーヴを生んでいる。今ではポップミュージックにも大きく浸透し、多くの人々を惹きつけてやまない。文字の記録こそ進んだ文明の証とされがちだが、必ずしもそうではないことを示している点も興味深い。

西洋音楽が楽譜に書いた理論を再現するという抽象的世界から出発するのに対し、アメリカスの奴隷制社会から生まれた音楽は、奏でられる音を聴き、真似て覚えるという個別・具体的世界から生まれてきた現実と無関係ではないはずです。

 世の中では「新しさ」が重視され、斬新であることが称揚されがちだが、本当にそうだろうか。著者はブラック・ミュージックの性質を思想家のアミリ・バラカンの概念を用いつつ「変わりゆく同じもの」だと主張している。単純に「新しい」というだけではなく、その未来は過去から生み出されている。ヒップホップのサンプリングはまさに最たるものだろう。偶然なのか、この「変わりゆく同じもの」をテーマにした日本語ラップの曲を思い出して久しぶりに聞いた。懐かしい…!

 新書とは思えないほど広範な議論が展開、紹介されており、ここで紹介したのはほんの一部だ。「ブラック・ミュージック」好きの方は、ぜひ読んでほしい一冊。

2025年9月24日水曜日

THE VIBES OF RIP SLYME vol.1

THE VIBES OF RIP SLYME vol.1/ゴウロクケンジロウ

 一年間の期間限定とはいえ、久々に五人で再始動したRIP SLYME。そんな復帰の話題で盛り上がるなか登場したのが、このRIP SLYMEのZINEだ。RIP SLYMEは、日本語ラップを好きになるきっかけとなったアーティストであり、多くのアラサー、アラフォーにとって特別な存在だろう。この復帰タイミングで、単純なファンジンの領域を大きく飛び越えた決定版ともいえるアーティスト本がリリースされたことに読み終えて感謝した。

 本著はvol.1と銘打たれており、1994年〜2004年までのキャリアを総括する内容になっている。自分は「雑念エンターテイメント」のシングルから聞き始めたので、インディー時代の活動はほとんど知らなかったが、本著ではその点も徹底的に掘り下げられている。インターネットで容易に情報が拾えない時代の雑誌やラジオといった一次資料を丁寧に参照しており、著者の足で稼いだ情報から熱意が伝わってきた。

 ジャーナリストよろしく、カジュアルな ファンにとっての空白の時間を埋めてくれている。メンバー各自のバックグラウンドや、加入するタイミングがこんなにバラバラだったなんて知らなかったし、当時のシーンにおける評価を知ることができる点が興味深い。90年代の日本語ラップが語られる際、彼らはほぼ抜け落ちる対象なので貴重である。特に宇多丸、Zeebra、Dev Largeらによる言及から、彼らのポジションが伝わってきた。Dev LargeがRIP SLYME を評価していた件として、ナイトフライトのコメントが参照されていたが、後年コンピレーションCDの『Mellow Madness』に「白日」が選曲されていたことも個人的には印象的な出来事であった。

 本著の魅力は、前述したような「日本語ラップ」の切り口と「ラップ歌謡」の切り口の両面から紐解いている点が挙げられる。ラップ歌謡の切り口でいえば、当時のオリコンチャートの数字がとても興味深い。子どものころに理解できていなかった数字の意味がわかるので、いかに RIP SLYME がラップ歌謡でJポップフィールドをサバイブしていたか、よく理解できた。今では武道館公演を行う日本語ラップのアーティストはたくさんいるが、彼らは全盛期、一年に五回も武道館でライブをやっていたことがあったり、さらには五万人スケールのライブまでも行っており、今の日本語ラップバブルのスケールと比較しても、稀有なアーティストであることが数字から明らかにされていた。

 楽曲分析もかなり丁寧に行われており、サウンドとリリック双方から分析されている。現在の日本語ラップに関する批評および語りは、どちらか片方に偏っているケースが多いわけだが、本著ではシングルCDが売れていた背景もあり、一曲一曲の重みが大きかった時代ゆえの情報が整理されていた。なんならCDジャケットのデザインまで深掘りしていて驚いた。近年、プレイヤーサイドからの情報開示が進んでいる点も大きく、特にRYO-Z、FUMIYAを中心に昔語りが進んだことで本著の情報量は肉厚になっている。元の動画を見ればいいのだろうが、こうやって体系的に整理してもらうことで全体像が理解しやすくなっており、素晴らしい仕事だ。

 逆説的で申し訳ないのだが、こうした分析から自分がRIP SLYMEを当時そこまで好きになれなかった理由も見えてきた。それはビートのBPMとジャンル性である。RIP SLYME はとにかく速いBPMと、非ヒップホップ的な音色の数々が特徴的だった。日本のマーケットはBPM が早くなければ人気がでない兆候は現在も続いているが、それに応じた采配だったのだろう。(Creepy Nutsもその呪いの下にいると言える。)また、『MASTERPIECE』におけるビートルズオマージュもヒップホップとは別のベクトルであり、マス受けを目指していたことがよくわかる分析で大変興味深かった。今、各アルバムを聞き返してみると、自分が好きなテイストの曲はたくさんあるわけだが、当時の私は、キングギドラ「公開処刑」の影響もあり、よりドープなもの、BPMが遅いものを追い求めていたがゆえに好きになれなかったのだなと改めて納得した。

 全体的にはジャーナリスティックな筆致だが、たまに垣間見える著者のRIP SLYMEに対する思いや当時の思い出が、本著をスペシャルなものにしている。これこそファンジンの魅力であり、出版社やアーティスト自身によるムック本とは異なる点だ。なかでも『TOKYO CLASSIC』を聞くシーンは全く同じ経験があったかと錯覚してしまうほど具体的な描写に相当グッときた。

 インターネット以後は追体験しやすい環境が整い、当時の状況を知らない世代が、主観的視点で書いたり、語っている場面を見かけることがある。しかし、著者は自身とRIP SLYMEの距離をしっかりと設定していて、主観と客観を明確にしてくれているので、その点もヒップホップ的に「リアル」だと感じた。

 RIP SLYMEとポリコレの関係も、当人たちは触れにくいことなので、ファンジンならではといえる。SMAPとの対比で描いていく展開が見事だった。具体的なことでいえば、t.A.T.uのMステ事件にRIP SLYMEが間接的に関与していたなんて知らなかった。ただ、その延長線で考えると、直近のMAGAオマージュ騒動が腑に落ちた。90年代サブカルに代表される露悪的ユーモアは軒並みキャンセルされている現代において、彼らのイタズラ心はそのポピュラリティに反比例するように理解されにくい。ラッパーである以上、もっとリリカルな形で表現として昇華すれば、それはアートとして受け止められるのではないかと感じた。

 今回の復帰前のRIP SLYMEに対するイメージは、地に落ちていたと言っても過言ではない。著者はその汚名を返上するべく、彼らが成し遂げた仕事の偉大さを体系的にアーカイブする気持ちで書き始めたそうだ。そして、このタイミングでRIP SLYMEが奇跡の復活を成し遂げたのは、著者の他の追随を許さないハードワークに対する神の恵みのようだ。Vol.2も首を長くして待ちたい。