2025年6月27日金曜日

統合失調症の一族 遺伝か、環境か

統合失調症の一族 遺伝か、環境か/ロバート・コルカー

 友人と話したポッドキャストで「2024年に読んだ中で一番」として挙げられていたので読んだ。統合失調症のことは何も知らなかったが、本著を読むことで過酷な実態を掴むことができた。そして、読み終えた今でもこれがノンフィクションだとは到底信じられない。さまざまな人物が錯綜しながら、その人間交差点の狭間から見えてくる精神病との戦いは「事実は小説より奇なり」を体現していた。

 舞台はアメリカのコロラド州。そこで50〜70年代にかけて12人の子どもをもうけた夫婦がおり、その子どもたちのうち6人が統合失調症にかかった。本著は、そのファミリーヒストリーと、統合失調症に対する研究と治療の歴史を追いかけたノンフィクションだ。

 統合失調症という言葉の響きだけでは、その実態がなかなか掴めないわけだが、以前は精神分裂病と訳されていた病だ。本人にしか意味が通らない発言、感情の激しい起伏、現実と幻想の境目が曖昧になるような症状が発症する病気だ。そんな異常事態が、家族内で次々と連鎖していく様は、読んでいて心が削られるほどだった。当時も今も、統合失調症に対して的確に作用する薬や治療がないため、なんとか各人が症状を抑えるような努力をしつつも、どうしても限界が生まれてしまい、ひたすら入退院を繰り返す終わりのない地獄のような日々が描かれていた。

 本著が最も優れているのは構成である。前半はひたすらファミリーヒストリーが続くのだが、あるタイミングで視点が一気に切り替わる。それは統合失調症に関する研究パートが入ってくるのだ。その後は、家族の話と、統合失調症に関する研究の話が交互に登場、どんどんグルーヴが増していき読む手が止まらなくる。ドラマとしての魅力を家族が担い物語を推進する一方で、学術的な探求も進んでいくことで興味が尽きない。一冊を通して、知的好奇心と感情の揺さぶりが波のように押し寄せてくるのだ。

 家族一人一人のキャラクターが強烈なことも本著の魅力である。「魅力」というと語弊があるが、とにかく最悪と思える出来事が頻発する。外ヅラの家族像とその内情のギャップは、どこの家族でもいくらかは抱えていることだと思う。しかし、彼らほど多くを抱えている家族はそういないだろう。父も母も、多くの問題を抱えていたように見えるが、それを責めることができるかといえば、そう単純な話でもない。同じ立場に自分が置かれたと想像した場合、現実を冷静に受け止めて、一つずつ対処できるだろうかと言われれば到底無理だ。だからこそ、両親が「ことなかれ主義」で家族の体裁をなんとか延命させるしかなかったことが理解できる。

 現時点でも統合失調症の原因は明確にわかってない中、遺伝要因と環境要因が綱引きし続けている歴史的背景から学問の進歩を味わえる点が素晴らしい。当初は「統合失調症誘発性の母親」というレッテル張りで物事を単純化し表面を取り繕っていたが、研究が進んでいくと、遺伝要因以外の可能性も開かれていく。学問は一足飛びに真理に辿りつくものではなく、常に迂回し、間違いを経て前進していくというプロセスが丁寧に描かれていた。大きなことを言えば人間が人間である理由とも言える。一方で資本主義社会において、病を研究し、創薬することの難しさが伝わってきた。多くの人が劇的に良くなる可能性があったとしても、そこで「儲けられるか?」という指標が介在するために研究が中断、分断してしまうシーンは虚しい気持ちになった。

 終盤にかけて末娘のリンジーが、母親と精神疾患を抱える兄たちの面倒を一手に担い、病気を抑える各人にとっての最適解を模索していく過程には驚いた。なぜなら年齢が一番下であるがゆえに、家族の中で最も割を食った人生を歩んできた立場だからだ。しかし、そんな過去に拘泥することなく、献身的なサポートを繰り返す。そして、その姿に感化されて他の兄弟たちも協力的になっていく様は、家族再生の物語として興味深かった。

彼女は、思いがけない残酷な運命が、自分は見逃してくれたものの、兄たちを襲ったことに、ひどい負い目を感じていたのだ。彼女はその不公平を正したかった。借りを返したかった。(中略)

なぜ私ではなくピーターが病気になったのか? とリンジーはよく思った。私は病気にならなかったのだから、ピーターに借りがある、と。

 そして、とんでもないエンディングが大ラスに待ち構えていて震えた。読んでいるあいだ、こんな未来を感じさせるエンディングは全く予期していなかったので驚いたのであった。原因がわからないゆえに他人事ではない病の怖さも感じつつ、超一級エンタメとしての魅力もある不思議な一冊。

2025年6月23日月曜日

心臓を貫かれて


心臓を貫かれて/マイケル・ギルモア

 最近、読書ブログを更新できていなかった理由は600ページ超の本著を読んでいたからだ。犯罪実録もので、ページをめくってもめくっても終わらない、そんな読書体験はタイトルどおり「心臓を貫かれて」しまうような壮絶なものだった。

 殺人罪で死刑判決を受けたゲイリー・ギルモアが、死刑廃止ムード漂う70年代アメリカで、みずから銃殺による死刑を要求し執行された。そのゲイリーの実弟であるマイケルが自身のファミリーヒストリーを丹念に追いかけながら、どうしてゲイリーが死ななければならなかったのかについて掘り下げていくドキュメンタリーである。

 マイケルはローリングストーン誌でも活躍した音楽ライターであり、末っ子である自分自身の記憶や主観だけではなく、両親や兄弟の人生を丹念に取材し、まるで一本の映画を撮っているようなタッチで家族の歴史を描き出していく。特に序盤は両親の過去の話であり、当事者からはかなり距離のある登場人物かつ過去パートなので読み進めるのが本当に大変だった。そんな読みづらい物語が一気にドライブしていくのはマイケルの父の死であり、そこからまるで死神が順番に命を奪うかのような感覚に襲われる。

 カルマという言葉を信じてしまいそうになるほど、家族が破滅ロードを爆進し、物理的にもメンタル的にも救済される様子が描かれておらず、負の連鎖のチェーンそのものを丁寧に描いていく筆致なので、読み進めることが苦しくなる瞬間は何度もあった。マイケルは作中で何度も「呪い」や「悪霊」について語るが、それは決してオカルト好きなわけではなく、むしろ現実から目を逸らすための手段であることを明らかにしている。そして、彼の語りを通じて、オカルトへの逃避という行為そのものが、現実を受け止めることのしんどさを物語っているように感じた。

 「家庭こそ善である」という考え方の暴力性も印象的だった。過剰な束縛や従属によって鬱屈した気持ちが生まれていく様が克明に描かれており、父親からの体罰が日常的に繰り返される家庭で育った子どもが、グレない方が不自然だろう。育児における体罰なんてあってはならないと思いつつ、そんな描写のなかで思い出したのは川上未映子『きみは赤ちゃん』の次の一節だった。

生まれたわが子を犯罪者にしてやろうともくろんだ親はたぶんひとりもいないはずで、どの犯罪者も、どの大悪党も、最初はこのように人のおなかからでてくるだけの、ただのかたまりであったはずなのだ。

 本著では犯罪者になってしまう過程を追いかけるわけだが、決定的な「きっかけ」は存在しないことがわかる。つまり、さまざまなファクターがかけ合わさり、時間をかけて本人もわからないレベルで何かが少しずつ侵蝕していき暴発してしまう。それはまるで癌のようで、気づいたときにはもう手遅れなのだ。

 愛と憎しみは表裏一体であり、その対象によっては、愛はあっけなく憎しみに反転する。そして、その憎しみをきっかけとして、少しのミスで元に戻れないところまで落ちてしまう。その落ちた先で待つのは「信仰の皮をかぶった裁き」というのは言い得て妙だった。当時のアメリカではキリスト教かもしれないが、今の日本では「ジャスティス教」とでも呼びたくなるような正義の鉄槌が、ネット上で無数に振り下ろされている。その無邪気な行為がどれだけ人を壊してしまうか、そのリスクが軽視されている中で、本著を読むと人間性は昔と何も変わっておらず、表出する形が変化しているだけなのだと感じた。そして、絶え間のない審判を潜り抜けることが、生きることだ、という筆者の主張に激しく頷いたのであった。

 日本でも死刑制度は存在し、被告人の意思に沿うかのように早期執行される例も少なくない。しかし、ゲイリーの姿を通して見えてくるのは、人が人を裁くときに「死」をもって何が解決されるのか、という問いだ。当然、彼が重大な加害者であることは間違いないわけだが、その凶行に至るまでに何があったのか、本著ほどのプロファイリングを行なってからでも遅くないのではないのかと思う。原因の一端でも掴むことができれば、それを次世代に生かすことで未来は少しでも良くなるのではないのか。こんなことを言うと「理想主義者が!」と鼻で笑われることを承知しつつ、そんなことでも言わないとやってられないほど、本著で描かれる地獄は容赦がない。

 そして、分量的にも内容的にもかなりハードコアな本著を日本に紹介する上で、翻訳者としての村上春樹の活躍には舌を巻かざるをえない。訳者あとがきで、本著を翻訳する経緯や方法論について書かれていたが、その愛や思いは翻訳からも十分に伝わってきた。このリーダビリティの高さは特筆すべきもので、もし他の訳者だったら、完読できなかったかもしれない。いい意味でのポップさが効果的に機能するいい例だった。とにかく後にも先も前人未到な圧倒的ノンフィクション!

2025年6月10日火曜日

ZINE PAL at ゆとぴやぶっくす


さいたま市・南浦和のゆとぴやぶっくすさんにて開催されるZINEイベント
ZINE PAL」に参加します!以下イベントの紹介です。
(ゆとぴやぶっくすさんのインスタより引用)

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

ZINE PAL(ジンパル)はゆとぴやぶっくす主催のZINE頒布イベントです。去年から年一回開催しています。

ZINE PALという言葉はゆとぴやぶっくすがつけたオリジナルのネーミングです。パル=「友だち」で「ZINE友だち」というようなニュアンスです。ZINEを通じて制作者のことを知り、友だちの輪を広げていきたいという願いを込めてこのようなイベントタイトルにしています。

ZINE PALでは交流の時間も大切にしたいと思っているので制作者による搬入搬出のタイミングで店内で交流がもてる機会を設けようと考えています。

6/21、7/6、7/21は搬入・搬出DAYのため、出店者と直接会って話せる可能性があります。ZINE制作者に直接会ってみたい、話してみたいというかたはこの日にぜひお越しください。本人から直接購入したり自分が作っているものを手渡したり交換することも可能です。

このイベントを通じてZINEというごく私的なメディアを通じて交流をもち、作り手の発信と「自分でも何か作ってみたい!」と思うきっかけの場にしていきたいと考えています。

ぜひ、この機会にここでしか出会えない創作物、さまざまな価値観、また、個人から湧き上がるメディアとして楽しまれ、制作されているZINEとのふれあいをお楽しみください。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

販売していただく私のZINEは、以下の2冊です。

  • 乱読の地層
  • 日本語ラップ長電話

会期は【6月21日(土)〜7月5日(金)】の前期となります。

 ZINEについて、オンライン通販で売ったり、文学フリマに出店したり、さまざまなお店に委託販売をお願いしてきたのですが、一番やりたかったことは「自分が暮らすローカルなエリアでZINEを売ること」でした。今回念願が叶って、とても嬉しいです。改めてゆとぴやぶっくすさんには感謝しかありません。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございます!

 ゆとぴやぶっくすは、古本+新刊書籍のハイブリッド型の書店なんですが、古本は他の店で見ないものも多いですし、新刊書籍は店主の方のセレクトが個人的な趣味と合致することもあり、毎回行くたびにすべての棚をチェックしてしまう、とても好きな本屋さんです。

 東京に住んでいた頃は「さいたまって遠くない?」と思っていましたが、実際に住んで見ると、思っているより近いので小旅行気分でぜひお越しください。本屋だけではなく、近隣にユニークなお店がありまして、個人的なおすすめルートとしては、こんな感じです。

ゆとぴやぶっくす
   ↓
Letter(最高のジェラート)
   
ハレとケ(ロボットがコーヒーを入れてくれる!)

 最寄りは本屋不毛地帯であり、近隣の本屋もいわゆる大手書店ばかり。カルチャー不毛地帯であることは、先日のさいたま市長選挙において、ミュージシャンよりも排外主義者が多く得票したことから証明されてしまったわけですが、そんなことであきらめてはいけない!という気持ちも沸いてきた今日この頃です。他の出展者の方のZINEも楽しみです。それではどうぞよろしくお願いいたします!

2025年6月4日水曜日

独り居の日記

独り居の日記/メイ・サートン

 ブックオフで旧版が叩き売りされていたのをサルベージした。もともとメイ・サートンという名前は知っていたし、最近の日記ブームの中で取り上げられる場面が多い一冊。そんな日記文学の古典として興味深かった。日々の生活の中からクリエイティビティを絞り出していく中で、喜怒哀楽がないまぜになりながらストラグルしている様がビシビシと伝わってきた。

 この日記は、著者が58歳の一年間を記録したもので、毎日欠かさず書くというよりも、思い立ったときに日々の生活のあれこれや、小説、詩といった創作に関して備忘録的に日記として綴っている。初版は1973年なのだが、半世紀前の文章とは思えないほど、現代に生きる我々の胸に刺さる言葉が詰まっていた。

 庭仕事の描写にページが相当割かれており、著者のライフワークと言っても過言ではない。草を抜き、花を植え、室内に持ち帰って飾る。そうした行為が、メンタルのバランスを保つための儀式のように描かれている。著者自身が癇癪や鬱に悩まされていることを自覚しながら、その揺らぎと向き合うために自然との接点を持つ。部屋に花があるだけで気持ちが安定するという話は、現在の「ていねいな暮らし」の流行とは違った、もっと切実でリアルな生活の知恵として響いた。ちょうど自分の子どもが花を好きになったことをきっかけに、植物への関心が高まっていた時期だったので、個人的にも感じ入るものがあった。

 都市で働いていると、季節の変化を感じ、味わうことが疎かになりがちだ。天気が悪い、暑い、寒いといった直接的な感覚ではなく、庭の草木や動物の行動を媒介にして感じる間接的な季節の移ろいが、本著には丁寧に描かれている。その季節の変化と自身の心情の変化をシームレスに描いていくその筆致は、日記の魅力そのものと言える。少し方向性は違うが、植本さんの新作にも通じる要素があるように感じた。

 日記の中では創作に対する著者の考え方がいくつも披露されており、そこが個人的にはハイライトだった。今の時代にも通用するようなことがたくさん書かれていて、70年代に書かれたとは思えないほど時代を超越している。一部引用。これらの言葉が書かれたのは1970年代だが、SNSや即席のバズが評価とされがちな今こそ強く響くはずだ。

芸術とか、技術のいろはを学ばないうちに喝采を求め才能を認められたがる人のなんと多いことだろう。いやになる。インスタントの成功が今日では当たり前だ。「今すぐほしい!」と。機械のもたらした腐敗の一部。確かに機械は自然のリズムを無視してものごとを迅速にやってのける。(中略)だから、料理とか、編み物とか、庭づくりとか、時間を短縮できないものが、特別な値打ちをもってくる。

不安は、私が知りもせず知るすべもない多くの人々の生活と、アンテナかなにかでつながっているという自分の生活の感覚を失ったときに起こるのだ。それを知らせる信号は、常時行き交っている。

 著者が受けた書評での厳しい評価に悩む様子も記されており、それをどう乗り越えるかに腐心する過程も包み隠さず描かれている。大衆受けするようなメジャー志向ではなく、自分の読者に向かって書いていこうとする姿勢に勇気をもらうクリエイターは多いはずだ。この辺りは自分でZINEを作ってみて初めて理解できた感覚であり、各人がディグして見つけてくれて、しかも買ってくれたことに改めて感謝の念が湧いた。ディグして見つけるものを「自分が発見した森に咲く野の花」と例えていて心に沁みた。

 本著の鍵となるテーマのひとつが「孤独」であり、それは「創造の時空としての孤独」として、訳者あとがきでも強調されていた。毎日のように手紙が届き、その返信に追われたり(今のメールやチャットと全く同じ…!)、たくさんの友人が訪問してきたりと多忙を極める中でも、あえて独りになる時間を確保し、その中で思考を整理し、創作に集中する。この喧騒と静寂のバランスが、著者の創作活動を支えていたのだろう。現代においても、常時オンラインでつながる生活の中で、自らをネットと切り離す時間の必要性は日に日に増しているように思える。

 著者は同性愛を公にしたことで大学を追われたという経歴を持っており、その背景を知ったうえで日記を読むと「孤独」の意味合いがまた異なって見えてくる。自分の恋愛事情を率直に語っているが、社会的な差別や偏見について直接的に訴えることはせず、あくまで関係性そのものに焦点を当てている点に、著者の強さが感じられた。一方で、性別役割への疑問や女性の生きづらさについては何度も言及しており、当時のウーマンリブ運動とも通じているのだろう。

 今の日記ブームの中では、どちらかといえば日々の生活の積み重ねに魅力を感じることが多いが、このように著者の思考がふんだんに入っているエッセイ寄りの日記がもっと増えてもいい。

2025年6月3日火曜日

三寒四温

三寒四温/高橋翼

 植本さんと出店した文学フリマで仲良くなった高橋さんのお店「予感」を訪れた際に交換いただいたZINE。阿佐ヶ谷にあるISB BOOKSで開催された「ふ〜ん学フリマ」に参加するために作られたそうでオモシロかった。前作『夏の感じ、角の店』に引き続き日記となっており、2025年2月のある一週間が綴られている。

 前作は土日にオープンしているお店の日誌だったが、今回は平日の暮らしも含まれており、高橋さんの生活のリアルな部分がさらに増していた。知っている人の日記を紙媒体で読む体験は新鮮で、高橋さんの人となりを知ってから読んでいるので、前作よりもなるほどな〜と思うことがたくさんあった。あと前作に引き続き、料理の描写が魅力的で、いつも食べたくなる。今回はパスタのレシピがとても美味しそうで真似したくなった。

 猫を迎える話があるのだが、そのきっかけをもたらした方の猫が今、行方不明になっているらしい。その猫の迷子ポスターをお店で見た私の子どもは、私と高橋さんがお店で話をしているあいだ、猫の行方をずっと心配していたらしい。そんな出来事があったので、「クック」という名前が出てきたとき、思わず「クック出てきた!」と思わず大声を出したのであった。この日記は、次のZINEにも収録予定らしいので、そちらも楽しみ。

 そんな高橋さんのお店「予感」で『日本語ラップ長電話』を置いてもらうことになりました。前作の『乱読の地層』に続いて、ありがたいかぎりです…都内で販売いただいているお店は『予感』だけですので「どんな感じなのかな?」と見てみたい方はぜひ「予感」を訪ねてみてください。先日、初めてお店に行かせてもらいましたが、とても素敵な空間で、慢性的カルチャー不足な埼玉県民の私と妻は「あんなお店が近くにあったらいいなぁ」と帰りの電車で連呼していたのでした。

Instagram (@yokan.daitabashi)

2025年6月2日月曜日

ここは安心安全な場所

ここは安心安全な場所/植本一子

植本さんの新作『ここは安心安全な場所』のレビューを書かせていただきました。
通販サイトでも読めますが、ここにもポストしておきます。
こんなふうに毎回紹介文を書かせていただいて、感謝しかありません。
この場を借りて改めてお礼を申し上げます…ありがとうございます!
詳しくは本およびレビューを読んでいただければと思いますが、
前作にも増して、新しいフェーズに突入している感じがあり、
「一子ウォッチャー」の皆さまはもちろんのこと、
今の社会のどこか息苦しい部分の一端を知ることができるという意味で、
読者を選ばない作品になっていると思います。
通販スタートとのことで、以下リンクからぜひお買い求めくださいませ。
(発送は6/16以降の発送とのことです。)

石田商店 - ここは安心安全な場所

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 植本一子によるエッセイシリーズ『わたしの現在地』の第二弾は「馬と植本さん」という、パッとは想像がつかないテーマだ。岩手県の遠野を訪れている様子は、SNSでたまに拝見していたが、まさか一冊まるごと「馬の話」とは思いもしなかった。その意外性もあいまって、新境地へと達した「エッセイスト・植本一子」の本領が発揮されている一冊と言えるだろう。

 冒頭、映画のワンシーンのように淡々と遠野へ向かう描写から始まる。車窓の景色や気温、身体の感覚などが手に取るように伝わってくる、描写の粒度の細かさに圧倒される。そこから流れるように遠野での暮らし、馬との出会い、触れ合いが綴られていくのだが、そこには知らない豊かな世界が広がっていた。植本さんの作品の魅力として、誰もが経験する日常を、信じられない解像度で描いている点が挙げられるだろう。今回は多くの人にとって非日常な「馬」というテーマではあるが、解像度はそのままに、門外漢にも分かりやすく、馬を通じた生活と植本さんの思考が展開されていく。

 実際、どんな馬なのか。その姿は、植本さん自身が撮影したフィルムの写真で確認することができる。表紙を飾る馬の写真を含めて、圧倒的な存在感に心を射抜かれた。我々が「馬」といわれて想像する見た目は多くの場合、競走馬のように整えられた姿だろう。しかし、植本さんが訪れた場所で暮らす馬たちはまったく異なる。金色の長いたてがみをなびかせた、その野生味あふれる立ち姿がとにかくかっこいい。実際、この馬たちは、馬房にも入れず、人間が求める役割から降り、なるべく自然に近い状態で生きているらしく、そんな形で存在する馬の凛々しさに目も心も奪われたのであった。

 写真でグッと心を掴まれた上で、植本さんがいかに馬に魅了されているか、馬との関係について丁寧に言葉を尽くしている文章を読むと、臨場感が増し、まるで自分自身が遠野の大地に立ち、馬と向き合っているかのような感覚になった。それは馬に関するルポルタージュのようにも読めるわけだが、馬との関係や、ワークショップで過ごした内容を含めて、内省的な考察が展開していく点が本書のユニークなところである。

 人間は他者と関係を構築するとき、どうしてもラベリングした上で、自分との距離を相対的に把握していく。そのラベルでジャッジし、ジャッジされてしまう。SNS登場以降、ネット空間ではラベルがないと、何者かわからないので、さらにその様相は加速している。しかし、そのラベルが失われたとき、人は一体どういう存在になるのか?そんな哲学的とも言える問いについて、馬とのコミニュケーションを通じて思考している様子が伺い知れる。

 馬との関係においては、自分がどこの誰かといった背景は一切関係なく、接触しているその瞬間がすべてになる。人間の社会ではどこまでもラベルが追いかけてくるが、動物と関係を構築する際にはフラットになる。さらに犬や猫といった愛玩動物と異なり、馬はリアクションが大きくないらしいのだが、そこに魅力がある。つまり、現代社会では「インプットに対して、いかに大きなアウトプットを得るか」が重視され、余暇でさえコスパ、タイパと言いながら、効率を求めていく。しかし、馬や自然はそんなものとは無縁だ。その自由さは私たちが日々の生活で忘れてしまいがちなことを言葉にせずとも教えてくれるのだった。

 夜、馬に会いに行く場面は、その象徴的なシーンだ。祈りに近いような気持ちで馬を探しにいくが、馬は何も語らず、大きなリアクションも返さない。ただそこにいるだけ。それなのに、言葉では伝えきれないような安心感や包容力の気配を確かに感じる。そんな馬という「写し鏡」を通じて、自分という存在の輪郭を静かに確かめる。そんな自己認識の過程は、近年の植本さんのテーマでもある「自分の在り方」をめぐる探究と共鳴していると言えるだろう。

 と、ここまでそれらしいことを書いてきたのだが、巻末にある徳吉英一郎氏による寄稿が本書の解説として、これ以上のものはないように思う。遠野で個人としても馬を飼い、暮らしている方による「記名論」とでもいうべき論考は刺激的だ。特に、怖れ、恐れ、畏れ、怯えとの関係は、ゼロリスク型の管理社会全盛の今、言われないと気づけない大事なことが書かれていた。

 写真と文章、両方の技術と感性を持つ植本さんだからこそなし得た新しい表現がここにある。本書を通じて、多くの読者が、自分の「現在地」を見つめ直すきっかけになることを願ってやまない。

2025年5月29日木曜日

KISSA BY KISSA 路上と喫茶ー僕が日本を歩いて旅する理由

KISSA by KISSA/クレイグ・モド

 いつも聞いているRebuildにゲスト出演された回がオモシロくて読んだ。ポッドキャストを聞いている際にも感じた視点のユニークさが、本著ではさらに際立っていて、日本生まれ・日本育ちではなかなか気づけない「日本の奥深さ」に触れることができた。

 著者は、旧中山道(東京〜京都)を、交通機関や自転車を一切使わず、徒歩のみで踏破していく。その道中で出会った喫茶店と、そこにいた人々とのやりとりが、エッセイとして綴られている。日本の片田舎にある純喫茶に、突然「東京から徒歩で来た」という日本語の話せる白人男性が現れ、自分たちの話を熱心に聞いてくれたら話も弾むだろう。その結果として集まったエピソードの数々は、どれもとても貴重なものだ。

 ブルーボトルコーヒーが、日本の純喫茶インスパイアであることは周知の事実だが、著者が掘り下げているのはコーヒーカルチャーだけではない。ブルーボトルがすくいあげなかった、コーヒー以外の純喫茶の「周辺」に存在するカルチャーと人である。独特の内装、モーニングという制度、店主や常連のお客さんたち。その姿は街をフィールドにした社会学者のようでもあり、翻訳ゆえの大仰な語り口とあいまって、どこか歴史家のような風格さえ感じさせる。

 読み始める前は「旧中山道といっても、今では国道沿いにチェーン店が並ぶだけでは?」と思っていた。しかし、著者は「喫茶店のピザトースト」を足がかりに、個人経営の純喫茶を巡礼のように訪ね、発見していく。「金太郎飴」だと思っていた街の中を、まるで桃源郷のような純喫茶を独自の審美眼で見つけては、お店の人、お客さんと会話することで土地の理解を深めていく様が興味深かった。価値のないと思われているところに新たなレイヤーを見出していく態度はヒップホップ的ともいえる。

 シャッター商店街や地方の過疎化については、すでに多くの切り口で語られてきたが、そこに日本国外の視点が加わることで、改めて気づかされることが多かった。たとえば、他国であれば、人がいなくなった場所は荒廃してしまい、うかつに近づけなくなるが、日本ではそのまま静かに残っていて、つぶさに観察できる。これが日本の独自だという視点は日本人には浮かばないだろう。

 若者の人口減少とグローバリゼーションの加速度的進行が、シャッター商店街、田舎に顕著に表れていると指摘されているが、2025年現在、それはさらに加速を進め、都市部の個人店もどんどん駆逐されていき、どの街も「金太郎飴」的な均質な風景へと変わりつつある。(渋谷とか)だからこそ、著者のように、自らの足で歩き、自分の目で見て、耳で聞くという行為は、ますます重要になっていくだろう。AI全盛の時代において、それはまさに「人間にしかできない営み」だ。

 この版元であるBOOKNERDにて拙著『日本語ラップ長電話』をお取り扱いいただいております。ぜひKISSA by KISSAと合わせて、ご購入くださいませ。
「結局、宣伝かい!」と思われるかもしれませんが、たまたま読んだタイミングだったのです…!奇跡!

日本語ラップ長電話 on BOOKNERD