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ほんまのきもち/土井政司 |
同じ著者の新刊がリリースされており、その前に積んであった本著を読んだ。DJ PATSAT名義のエッセイ&対談集『PATSATSHIT』がめちゃくちゃオモシロかったのも記憶に新しいが、小説となると打って変わって繊細さが際立っており、著者の何でも書けるマルチプレイヤーっぷりに舌を巻いた。
本作の主人公は小学生の子ども。その一人称で、小学校や家族との日常が綴られる。描かれているのはごく小さな世界のはずなのに、不思議とダイナミズムに満ちている。これは、自分が子どもと暮らすようになって気づいたことでもあるが、何気ない公園や道端でも、彼、彼女にとっては発見と驚きに満ちている。たとえそれが人形であっても、子どもにとっては「生きている」存在なのだ。大人になる過程で置き去りにしてしまった感覚が、本作ではみずみずしくよみがえってくる。
クラスで居場所を見つけられない主人公は、自分の立脚点を弟との関係、そして家族とのつながりに見出していく。だが、その大切な弟との間にもズレが生じ、余裕がなくなっていく描写には胸がキュッとなった。自分の中で感情がうまく処理できず、キャパオーバーしてしまう瞬間。そんなとき、誰かがそばにいてくれること。「先生のハグ」が他者による肯定の象徴として描かれており、家族だけではない他者が介在することの必要性を実感させられた。
子どもの語りで綴られる自然な関西弁の文体も本作の魅力だ。おそらく自身の子どもをトレースしているのだろうが、ここまでなりきって書けることに驚いた。自分自身、大阪出身なので、どうしても子どもの頃の記憶が呼び起こされる。関西出身ではない人が、お笑い的に茶化すニュアンスで関西弁を使う場面には正直苦手意識がある。関西弁が笑いと不可分であることは理解しつつも、その表層的な扱いにどこか浅はかさを感じてしまう。その点、本著は話し言葉で書かれていることもあり、関西の言葉が持つ微妙なニュアンスをすくいとり、方言を駆使した文学として昇華されていてかっこいい。
だからこそタイトルが「ほんとうのきもち」ではなく「ほんまのきもち」であることに意味がある。つまり「ほんとう」と「ほんま」は「本物であり、偽りや見せかけのでないこと」という意味の上では同じだが、ニュアンスが異なり「ほんま」には主観的な感情や温度がいくらか込められているのだ。皆が追い求める客観的な「正しさ」ではなく当人にとっての「確からしさ」とでも言えばいいのか。自分自身も「ほんとうのきもち」より、「ほんまのきもち」を大事にしたいと思えた小説だった。
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