2025年7月17日木曜日

初子さん

初子さん/赤染晶子

 エッセイ集『じゃむパンの日』がオモシロかったので読んだ。本業である小説のフィールドでも、その唯一無二の感性は健在というより、さらに強烈に発揮されていた。この二冊からして書き手としての才能は明らかで、もう亡くなってしまっていることが悲しくなる。palmbooksが復刊を手がけるのも読めばわかる小説だった。

 タイトル作を含め中篇が二つ、短編が一つで構成されている。いずれも三人称で描かれている女性が主人公の物語だが、それぞれの時代も立場もまるで違っていて、三つの異なる世界が広がっている。共通しているのは、どの物語でも「女性が働くこと」にフォーカスさかれている点だ。主人公が労働を通じて感じる違和感や停滞感について、豊富なメタファーを駆使して描いている点が本著の魅力と言えるだろう。

 普段読む小説の中で、これだけメタファーが多用する作家はいないので新鮮だった。このメタファーの鮮やかさはラップのリリックに近いものがある。例えば、「初子さん」では、縫い目(主人公の仕事)→日々→呼吸(母の寝息)という繰り返しの動作を重ねていく様が鮮やかだった。「まっ茶小路旅行店」では、停滞した職場の空気を砂漠に例え、そこに生えているサボテンを自分自身、さらに自分に不似合いなカンザシをサボテンの花に例えるイメージの連鎖もうっとりする。

 停滞している空気、なんの変化もない日常の繰り返しが耐え難く、労働を中心とした生活の中に意味をなんとか見出して、艱難辛苦を乗り越えていこうとする姿は胸にグッとくるものがあった。生きるために働くのか、働くために生きているのか、わからなくなることがたまにあるが、この小説の主人公たちのストラグルを見ていると、後者でありたいなと思う。

 本著のなかでも異質なのが「うつつ・うつら」だ。お笑い、芸事を題材にした歪な小説で、この歪さをどう受け止めていいのか正直戸惑った。売れない女性のピン芸人が舞台に立ち続けるものの、階下にある映画の音がダダ漏れで、自分のネタが映画の音にかき消されていくという、なんともシュールな状況から始まる。そこへ漫才コンビ、九官鳥、赤ちゃんなど、どんどん要素が上乗せされながら「言葉と実存性」みたいな話に変容していく。具体的には、言葉を剥ぎ取られることの恐怖を通じて、己がなんのために存在しているのか、問われるのだ。自分の言葉が剥ぎ取られる感覚は生成AI全盛の現在、誰しもが経験したはずであり、今読むと考えさせられる。ユニークでカオティックな世界観の中でも、そこにある普遍性は、時代を越えて響いてくる作品だった。

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