2025年7月7日月曜日

2000年の桜庭和志

2000年の桜庭和志/柳澤健

 少しずつ読み進めている著者の格闘ドキュメンタリーの中でも一番楽しみにしていた作品。その期待に応える、いや大幅に上回る超絶オモシロさで、過去作とも繋がる格闘ロマンサーガだった。

 桜庭和志のキャリアを縦軸に、日本〜世界におけるMMAの発展を横軸に描くドキュメンタリーとなっている。ただ時系列に事実を追っただけでは、ここまでオモシロくなるわけはない。中心にいるのは、圧倒的天才であり、強烈なキャラクターと強さを兼ね備えた桜庭和志という稀有な存在だ。桜庭和志がUFC殿堂入りを果たした際のインタビューから始まるわけだが、正直「UFCと桜庭の関係」と聞いてもピンとこない読者が多いだろう。しかし、本著はそんな疑問を丁寧かつ力強く解きほぐしてくれる。読み終えた後に持つ桜庭和志像は今までよりもクッキリしたものになった。

 現在では、プロレスと総合格闘技(MMA)は完全に別物になっており、それぞれのファンダムが形成されているが、2000年代後半くらいまではその境目がきわめて曖昧だった。主に新日本プロレスのレスラーたちが総合格闘技の試合に出場しており、プロレスからMMA好きになった私はその結果に一喜一憂していたのであった。良い意味でも悪い意味でも大元は桜庭和志が言い放った「プロレスラーは、本当は強いんです!」だと言える。この言葉は、グレイシー一族が黒船として登場してから、彼が具現化していく。高田延彦がヒクソン・グレイシーに二度敗戦したことで、本当の「強さ」が何かわからなくなってしまった日本のプロレスファンのもとに颯爽と現れた救世主が桜庭だった。世代的に後追いなので、桜庭和志の衝撃をそこまで理解できていなかったのだが、本著を読んで、その格闘IQの高さがひしひしと伝わってきた。それもこれも筆者の圧倒的描写能力によるものであり、もう著者以外の格闘ライターのルポでは満足できない気さえする。特に総合格闘技史上、ベストバウトの呼び声が高いホイラー戦は白眉。実際Youtubeで映像を見てさらに感動した。グレーゾーンではあるものの、すぐ見れるのはいい時代になったものだ。

 タイトルどおり、桜庭和志の評伝なのだが、「評伝」という形式の強みも存分に活かされている。自伝とは異なり、本人の語りに他者の視点や検証を加えることで、立体的で多層的な人物像が浮かび上がってくる。桜庭本人へのインタビューだけではなく、当時の関係者、対戦相手の証言まで丹念に取材しており、その積み重ねが「記録」としての信頼性と「物語」としてのオモシロさを同時に成立させている。近年では「批評には意味がなく、本人の言葉がすべて」という乱暴な議論を見かけることもある。しかし、本著のような作品に触れると、誰かが記録し、検証し、分析することでしか見えてこない景色があることに気付かされた。

 単純な評伝で終わっていないところが本著のもっとも優れた一面であろう。桜庭和志を通じてMMAの歴史を紐解いているからだ。ルールすら定まらなかった創世記から、世界的な人気スポーツへと至るまでの過程を、一人のファイターの歩みと重ねることで、歴史が血の通った物語として立ち上げている。今はRIZIN、UFCともに大きな人気を博しているが、そこに至るまでの長い道のりは知らないことだらけで驚いた。今でこそUFCの方が圧倒的にレベルも人気も高い状況ではあるが、PRIDE全盛期、UFCは今よりも下火であり、世界最強が集まっていたのはPRIDEだったという話は隔世の感がある。

 一番印象的だったのはオープンフィンガーグローヴの採用のくだりで、今でこそ当たり前になっているものにある背景を知ることができて勉強になった。そしてMMAの背景として最もボリュームが割かれているのは柔術である。柔術の歴史を丁寧にわかりやすく解説してくれた上で知るグレイシー柔術の成り立ち、そして桜庭和志と邂逅するまでのストーリーラインの美しさは完璧なプロットと言いたくなる完成度だった。

 また、当時の格闘シーンの歪みや問題点について忌憚なく書かれている点に真摯さを感じた。特にプロモーターサイドの無茶なマッチメイク、今でこそRIZINの顔にもなっている榊原氏の立ち回りは特に目を引いた。「地獄のプロモーター」と笑うことは簡単だが、それは選手のことを考えたマッチメイクではないことをオモシロおかしくして誤魔化しているだけだと気付かされた。また、桜庭といえば、秋山との試合におけるヌルヌル事件が有名だが、秋山が柔道家時代にも同じようにクリームで道着を掴みにくくしていたなんて知らなかった。相当な悪意のある行為にも関わらず、本人の禊がほとんどなされないまま、ONEで逆輸入されて免罪されている状況はしんどいものがある。この視点で見ると、近年ONEで行われた青木と秋山の試合は、桜庭と青木のRIZINでの戦いも踏まえると、是が非でも青木に勝って欲しかったものである。(試合後の桜庭の一言が泣ける…)

 格闘家の半生とキャリアをまとめた動画は今ではYouTubeにたくさんあって、知らないUFCファイターのエピソードとか見てしまうのだが、こういった本に出会うと活字にしかない情報の圧縮量と熱量を改めて感じた。MMA好きな人はマストで読んでおくべきクラシック。

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